秀吉との関係修復・島津氏との講和斡旋とは? わかりやすく解説

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秀吉との関係修復・島津氏との講和斡旋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「秀吉との関係修復・島津氏との講和斡旋」の解説

天正13年7月秀吉朝廷より関白任命された。その後、「関白秀吉将軍義昭」という時代2年半の間続いた。この2年半は、秀吉天下統一していく期間に該当する。またこの間義昭将軍として秀吉抵抗する島津氏に対して秀吉との講和勧めている。 天正14年1586年8月毛利輝元先陣として、秀吉九州平定始まった。だが、島津氏の兵は精強であり、先陣敗戦重ねた12月4日義昭一色昭秀薩摩島津義久のもとに送って秀吉との講和勧めている。これは毛利氏意向受けたものであり、毛利氏島津氏とはもともと、大友氏との関係から同盟していたこともあって、全面的な闘争望んでおらず、それゆえ義昭介す形で意向伝えた考えられる天正15年1587年2月義昭一色昭秀使者として、島津氏に再び講和勧めている。このとき、義昭秀吉の弟・豊臣秀長意見伝えと書状で記していることから、義昭のこの要請秀吉意向受けたものであり、義昭秀吉連携取っていたことがわかる。島津氏義昭をこの時点でもなお主君として仰いでおり、秀吉島津氏面目が立つように、義昭の上意という形で講和勧告行った考えられる3月秀吉九州に向かう途中義昭の住む鞆の御所に近い赤坂立ち寄り、ここで義昭対面した義昭秀吉贈り物交換し親しく酒を酌み交わした義昭秀吉十数年ぶりに対面したが、秀吉はもはや従一位関白太政大臣であり、従三位権大納言義昭よりも数段上の存在となっていた。 同年4月義昭一色昭秀送って島津義久重ねて講和勧めている。その結果義久は昭秀らの勧告受けて21日降伏受け入れた5月島津氏秀吉に降伏した。義昭がこの勝利どれほど貢献したかは不明だが、秀吉義昭の功を認めた。そして、義昭望んだ帰京認め毛利氏対し義昭帰京使用するための船の調達命じたこの頃義昭毛利氏願い御座所を鞆から山陽道に近い沼隈郡津之郷(福山市津之郷町)へと移させた。時期不明ながら、鞆に近い山常国寺御座所としていた時期もあった。 7月細川幽斎厳島神社での延年舞見たのち、義昭のいる津之郷の御座所訪れた義昭帰京に関する打ち合わせが行われたと考えられている。両者蟠り十数年の歳月経て、ほとんどなくなっていた。 8月義昭の子息・義尋興福寺大乗院門跡となることが決定し28日大乗院入室得度した。これは、秀吉による義昭に対して島津氏討伐の功賞であり、義昭意向に従って優遇したものと考えられる

※この「秀吉との関係修復・島津氏との講和斡旋」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「秀吉との関係修復・島津氏との講和斡旋」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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