秀吉との関係修復・島津氏との講和斡旋
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「足利義昭」の記事における「秀吉との関係修復・島津氏との講和斡旋」の解説
天正13年7月、秀吉が朝廷より関白に任命された。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年半の間続いた。この2年半は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。またこの間、義昭は将軍として、秀吉に抵抗する島津氏に対して、秀吉との講和を勧めている。 天正14年(1586年)8月、毛利輝元を先陣として、秀吉の九州平定が始まった。だが、島津氏の兵は精強であり、先陣は敗戦を重ねた。 12月4日、義昭は一色昭秀を薩摩の島津義久のもとに送って、秀吉との講和を勧めている。これは毛利氏の意向を受けたものであり、毛利氏は島津氏とはもともと、大友氏との関係から同盟していたこともあって、全面的な闘争を望んでおらず、それゆえ義昭を介す形で意向を伝えたと考えられる。 天正15年(1587年)2月、義昭は一色昭秀を使者として、島津氏に再び講和を勧めている。このとき、義昭は秀吉の弟・豊臣秀長の意見を伝えると書状で記していることから、義昭のこの要請は秀吉の意向を受けたものであり、義昭と秀吉は連携を取っていたことがわかる。島津氏は義昭をこの時点でもなお主君として仰いでおり、秀吉は島津氏の面目が立つように、義昭の上意という形で講和の勧告を行ったと考えられる。 3月、秀吉が九州に向かう途中、義昭の住む鞆の御所に近い赤坂に立ち寄り、ここで義昭と対面した。義昭は秀吉と贈り物を交換し、親しく酒を酌み交わした。義昭は秀吉と十数年ぶりに対面したが、秀吉はもはや従一位・関白・太政大臣であり、従三位・権大納言の義昭よりも数段上の存在となっていた。 同年4月、義昭は一色昭秀を送って、島津義久に重ねて講和を勧めている。その結果、義久は昭秀らの勧告を受けて、21日に降伏を受け入れた。 5月、島津氏が秀吉に降伏した。義昭がこの勝利にどれほど貢献したかは不明だが、秀吉は義昭の功を認めた。そして、義昭が望んだ帰京も認め、毛利氏に対し、義昭が帰京に使用するための船の調達を命じた。 この頃、義昭は毛利氏に願い、御座所を鞆から山陽道に近い沼隈郡津之郷(福山市津之郷町)へと移させた。時期は不明ながら、鞆に近い山田常国寺を御座所としていた時期もあった。 7月、細川幽斎が厳島神社での延年舞を見たのち、義昭のいる津之郷の御座所に訪れた。義昭の帰京に関する打ち合わせが行われたと考えられている。両者の蟠りは十数年の歳月を経て、ほとんどなくなっていた。 8月、義昭の子息・義尋が興福寺の大乗院門跡となることが決定し、28日に大乗院に入室、得度した。これは、秀吉による義昭に対しての島津氏討伐の功賞であり、義昭の意向に従って優遇したものと考えられる。
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