秀吉との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 16:20 UTC 版)
6月27日、清洲会議が開かれるが、信雄と信孝は会議の席上から外された。『耶蘇年報』によれば「信孝が天下の主となる」という噂があったようであるが、会議の結果は天下人を定めずに4人の宿老の合議制とし、ただ織田家家督は信長の嫡孫・三法師が継ぐと定められて、信孝は兄・信忠の領地であった美濃国一国と岐阜城を与えられることになり、同城で三法師の後見役を務めることになった。変の後、岐阜城は加治田城主・斎藤利堯が占拠していたが、利堯は城を信孝へ明け渡してその家老に収まった。 詳細は「清洲会議」を参照 7月4日、信孝は本能寺に対して御触を出して、信長の御屋敷として造成された本能寺跡地を墓所とするように命じ、住僧を戻らせるように指示した。 家督の問題が片付いた後、畿内を手中に収め同じ宿老である丹羽長秀・池田恒興を実質的麾下に置いて織田家の主導権を握った秀吉が、天下人を継いだかのような行動を取り始めたために、信孝はこれと反目して、同じくこれに不満を持っていた柴田勝家に接近した。 10月頃、勝家と叔母のお市の方との婚儀が岐阜城で行われたが、これを仲介したのは信孝だと言われる。従来の説では、秀吉もお市の方を所望したが、信孝が清洲城にいたお市の方を説得して秀吉の求婚を断らせ、勝家との再婚を取り纏めたと言われている。しかし、勝家の書状には「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」と書かれたものがあり、むしろ秀吉が、勝家とお市の方の再婚を勧めたという説もある。その為、結婚の経緯や時期について史料では確かなことはわかっていない。 10月6日、柴田勝家は堀秀政を介して秀吉が清洲会議の決定に違反していると通告し、諸大名に弾劾状を送った。一方で、同月10日から15日にかけて大徳寺で秀吉自身を喪主とした信長の葬儀が大々的に行われた。織田家では異母弟・羽柴秀勝、信長の乳兄弟でもあった池田恒興・古新親子が参加したが、当主・三法師、その後見人の信雄、信孝、宿老の勝家、滝川一益はこれに出席できなかった。10月28日、羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の三宿老が、清洲会議の決定を反故にし、織田信雄を暫定的な織田家当主として主従関係を結んだ。後にこれは徳川家康も賛同して信雄を支持した。両陣系の対決が不可避の状勢になると、11月2日、柴田勝家は前田利家を介して秀吉と一旦和睦したが、これは勝家の領土が雪国で、冬は行動が制限される為であった。それを見抜いていた秀吉は、逆に前田利家を調略した。 三法師は安土城へ移ることが清洲会議で決定していたが、信孝は三法師を岐阜城から離さなかったので、これを謀反の口実として、12月2日、秀吉と信雄は三法師奪還を名目に挙兵した。丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢した。雪で勝家が動けないままに、秀吉は長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を囲んだ。依然として美濃を掌握しきれていなかった信孝は降伏せざるを得ず、12月20日、三法師を秀吉に引き渡すとして安土へ送り、母の坂氏や乳母、娘らを人質として供出して和睦した。この結果、東美濃で独立的行動をとっていた森長可、稲葉良通だけでなく、与力の氏家行広らも信孝側を離れ、家老の岡本良勝、斎藤利堯も秀吉側に寝返った。 天正11年(1583年)正月、まず北伊勢で反秀吉派の滝川一益が挙兵した。秀吉は一益を討伐する為に軍を派遣し、滝川勢に占領された国府城を奪還したが、それ以外の城は落とせずにいた。さらに3月になると雪解けと共に挙兵した柴田勝家が近江に出陣した。長島城を攻撃していた秀吉は、勝家の出陣を知ると、蒲生氏郷・織田信雄に伊勢を任せて、自身は北近江で柴田軍と対峙した。すると4月16日、滝川・柴田の動きに呼応して、秀吉に降伏していた信孝も岐阜城で挙兵し、秀吉に服属する稲葉良通の所領の城下に対して焼き討ちをさせている。信孝挙兵の報を受けると、17日、秀吉はすぐに美濃へと出陣したが、大雨により大垣城で足止めを受けた。20日に賤ヶ岳砦で戦闘があり、これを知った秀吉はわずか5時間で近江に帰還し、勝家の軍勢を破った。敗退した勝家は本拠地である北ノ庄城に逃れるも、城を包囲されて24日に自害した。 詳細は「賤ヶ岳の戦い」および「美濃大返し」を参照
※この「秀吉との対立」の解説は、「織田信孝」の解説の一部です。
「秀吉との対立」を含む「織田信孝」の記事については、「織田信孝」の概要を参照ください。
- 秀吉との対立のページへのリンク