柴田勝豊とは? わかりやすく解説

柴田勝豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/25 15:35 UTC 版)

柴田 勝豊(しばた かつとよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名織田家宿老柴田勝家の甥でその養子となり、越前丸岡城[3]のちに近江長浜城主を務めたが、勝家との不和から離反して羽柴秀吉に属した[3][1]


注釈

  1. ^ 勝家の養子だが、後に佐久間姓に復したため諸系図に名前がない。
  2. ^ 『寛政譜』では勝家との血縁関係に関する記述はなく「某氏の男」とのみある[1]。諸系図には勝豊の母についてしるしたものはなく、同じく勝家姉妹の佐久間盛政の母とは扱いが異なる。
  3. ^ 明智方の武将で刑死。
  4. ^ もともと柴田勝家の家臣であったので、佐久間盛政に勧誘されて勝家に内応しようとしたが、勝豊の死の3日前に露見して、正国が預けていた人質は磔刑にされた。正国本人は柴田方で戦い、4月21日に戦死した。
  5. ^ 「大鐘」は「大金」ともする。

出典

  1. ^ a b c d e f 堀田 1923, p. 1104.
  2. ^ a b 加藤国光 編 『尾張群書系図部集(上)』続群書類従完成会、1997年、496頁。ISBN 9784797105551 
  3. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “柴田勝豊”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年4月22日閲覧。
  4. ^ 『改訂坂田郡志・『近江長浜町史』
  5. ^ a b c d e f g h 谷口 1995, p. 204.
  6. ^ a b 山鹿素行 国立国会図書館デジタルコレクション 『『武家事紀』巻第十三』山鹿素行先生全集刊行会、1915年、450-451頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946584/246 国立国会図書館デジタルコレクション2013年10月30日閲覧 
  7. ^ 福井県史年表 1581~1600年”. 2021年8月31日閲覧。
  8. ^ 太田浩司 著「賤ヶ岳の戦い」、杉山博; 渡辺武; 二木謙一 他 編 『豊臣秀吉事典』新人物往来社、2007年、254頁。ISBN 9784404034687 
  9. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p. 120.
  10. ^ 谷口 1995, p. 204-205.
  11. ^ 谷口 1995, p. 205.
  12. ^ 中島孝治「柴田家離反に動いた実相を追う」(『歴史群像シリーズ』15号、1989年)[要ページ番号]
  13. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “山路正国”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2021年8月31日閲覧。
  14. ^ 朝日日本歴史人物事典. “亀田高綱”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2021年8月31日閲覧。


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