柴田氏 北ノ庄城とは? わかりやすく解説

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柴田氏 北ノ庄城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:32 UTC 版)

福井城」の記事における「柴田氏 北ノ庄城」の解説

朝倉氏滅亡後越前支配していた一向一揆越前一向一揆)を平定し功績によって、越前国北ノ庄与えられ柴田勝家が、1575年天正3年)に自らの縄張りによって築城開始する。城は足羽川吉野川(のちの百間堀)が合流した位置築かれ、堀の一部足羽川使用していたと推定されており、天守7層一説には9層構造で、安土城匹敵する巨城であった伝えられている。 宣教師ルイス・フロイス1581年天正9年)に北ノ庄訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷屋根全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観増した」とある。この「石」とは、城に程近い足羽山産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査見出され柴田時代石垣笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家養子柴田勝豊によって築城された丸岡城天守笏谷石製の石瓦葺いている。また、町の規模安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川架橋された九十九橋についても言及がある。 しかし1583年天正11年4月北ノ庄城の戦い勝家敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ建造物のほぼ全て焼失することになる(北ノ庄城の戦い)。勝家攻め滅ぼした羽柴秀吉戦後間もない1583年天正11年4月25日毛利氏重臣小早川隆景送った書簡には、「城中石蔵高く築き天守九重であった旨の記述がある。(ただし九重には「何段にも重なる」という意味もある)

※この「柴田氏 北ノ庄城」の解説は、「福井城」の解説の一部です。
「柴田氏 北ノ庄城」を含む「福井城」の記事については、「福井城」の概要を参照ください。

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