柴田氏 北ノ庄城
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朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆(越前一向一揆)を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、1575年(天正3年)に自らの縄張りによって築城を開始する。城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。 宣教師のルイス・フロイスが1581年(天正9年)に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で葺いている。また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。 しかし1583年(天正11年)4月の北ノ庄城の戦いに勝家が敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになる(北ノ庄城の戦い)。勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない1583年(天正11年)4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述がある。(ただし九重には「何段にも重なる」という意味もある)
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