清和源氏足利氏流斯波氏族とは? わかりやすく解説

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清和源氏足利氏流斯波氏族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:29 UTC 版)

柴田氏」の記事における「清和源氏足利氏流斯波氏族」の解説

織田信長重臣務めた柴田勝家血筋始祖柴田修理大夫義勝越後国柴田現在の新潟県新発田市)の人で、同地地名をもって家号としたという。 また、尾張国愛知郡一色城拠るといい、『尾張志』に城主として柴田源六源六郎)の名が見える。城下一色村にある神蔵寺には柴田源六勝重、在世の折、同寺を建立し岫麟棟和尚招待して開祖とするという。勝重の没年文亀3年1503年)であるといい、戒名霊元院殿天信了運大居士であるという。 戦国時代の武将柴田勝家隣村村上村の人であるといい、もし勝重の裔であれば孫か曾孫かと推定される一方で勝家義勝の孫との記述もあり、その系譜は必ずしも十分明らかとはいえない。太田亮越後国新発田出であれば佐々木氏同族ということになるがはたしてその通りか、少なくとも義勝の孫という系譜について甚だ疑わしい指摘している。勝家若くして、家老として尾張織田信秀信長親子仕えた天正10年1582年)に、織田信長とその跡継ぎ信忠本能寺の変急死すると、信長跡継ぎをめぐり羽柴秀吉対立する天正11年1583年)には、賤ヶ岳の戦い秀吉と戦うが敗れその後居城北ノ庄城自害勝家筋の柴田氏滅びた。 なお、勝家養子である柴田勝政佐久間盛次三男の子勝重が徳川家康仕えており、その後江戸幕府旗本として柴田家名残した寛政8年1796年)には、柴田勝房柴田氏代々歴史刻んだ碑を春清寺建立している。

※この「清和源氏足利氏流斯波氏族」の解説は、「柴田氏」の解説の一部です。
「清和源氏足利氏流斯波氏族」を含む「柴田氏」の記事については、「柴田氏」の概要を参照ください。

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