秀吉と高松城陥落
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羽柴秀吉が、「信長斃れる」の変報を聞いたのは6月3日夜から4日未明にかけてのことであった。『太閤記』では、光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したことを説明している。『常山紀談』では、秀吉が所々に忍びを配置しており、備中庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)で怪しい飛脚を生け捕りにしたところ「信長を打ち取らば、秀吉必ず敗北すべし。秀吉を追い撃たれよ」と毛利側へ送る密書を持っていたとしている。また、京の動向を知らせるよう依頼していた信長側近で茶人の長谷川宗仁の使者から知りえたともいわれている。なお、光秀の密使としては明智氏家臣の藤田伝八郎の名が伝わっており、岡山市北区立田には「藤田伝八郎の塚」が現在も残っている。戦国史研究者の渡邊大門は、秀吉が上方の情報全般を入手するための使者を配置していた可能性を指摘している。 秀吉は変報が伝わると情報が漏洩しないよう備前・備中への道を完全に遮断し、自陣に対しても緘口令を敷いて毛利側に信長の死を秘して講和を結び、一刻も早く上洛しようとした。また、変報が伝わった際、黒田孝高は傍らで主君信長の仇を討つよう進言したという逸話がある。秀吉は情報を遮断した状況下で直ちに6月3日の夜のうちに毛利側から外交僧安国寺恵瓊を自陣に招き、黒田孝高と交渉させた。毛利側も、清水宗治の救援が困難だとの結論に達しつつあり秀吉との和睦に傾いていており、変報を知ったのは秀吉が撤退した翌日だった。この、本能寺の変を知りえるまでの情報入手における微かな時間差がその後の両者の命運を大きく分けたことになる。 3日深夜から4日にかけての会談で、当初要求していた備中、備後、美作、伯耆、出雲の5か国割譲に代えて備後と出雲を除く備中、美作、伯耆の3か国の割譲と宗治の切腹が和睦条件として提示された。秀吉側は毛利氏に宛てて内藤広俊を講和の使者に立てている。忠義を尽くした宗治の切腹という条件について毛利家は難色を示したが、恵瓊は、高松城の城兵の助命を条件に宗治に開城を説き、ついに宗治も決断した。 秀吉は宗治に酒肴を贈った。小舟で高松城を漕ぎ出した宗治は、水上で曲舞を舞い納めた後に自刃した。「浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」が辞世であったといわれる。秀吉は宗治の切腹を見届け、「古今武士の明鑑」と賞したという。宗治とその兄僧月清らの自刃は6月4日の午前10時頃と推定される。この後、秀吉は高松城に妻北政所(ねね)の叔父にあたる腹心の杉原家次を置いた後、兵を東方へ引き返した。 毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書(案文)から確認できる。この時、吉川元春などから秀吉軍を追撃しようという声もあがったが、元春の弟・小早川隆景はこれを制し、誓紙を交換している上は和睦を遵守すべきと主張したため、交戦には至らなかった。毛利輝元もこれを了承し、人質として秀吉側から毛利重政・高政兄弟、毛利側から小早川秀包と桂広繁が送られる(『日向記』)。4月下旬に瀬戸内海の制海権を失い、持久戦の準備をしている織田軍に対して力攻めをする兵力がなく、持久戦に耐える物資輸送手段に窮した毛利氏には講和をするしかなかったのである。 また、毛利勢は備中松山城(岡山県高梁市)に本陣を置き、領国防衛を第一とする基本的な構えで秀吉軍に対峙していることから、守備態勢を追撃態勢に切り換えることは事実上不可能であったとする見解もある。事実、秀吉は万一毛利勢から追撃される場合を措定して備前に宇喜多秀家の軍を留め置いている。仮に宇喜多軍が突破されても、伯耆の南条元続が毛利領に侵攻して毛利軍の背後を衝く手筈となっていたことも考えられる。光秀の立場からすれば、毛利の勢力が秀吉の背後を衝き、東西から挟撃する態勢となることを期待したが、毛利氏はそれに呼応しなかったし、呼応しても秀吉に挟撃できない状況を作られていたことになる。
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