中国大返し
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中国大返し(ちゅうごくおおがえし)または備中大返し(びっちゅうおおがえし)は、戦国時代末期の天正10年6月(西暦1582年6月 - 7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。
注釈
- ^ 常山城の戦いは「御次公」と呼ばれた信長の四男で秀吉の養子となった羽柴秀勝の初陣となった。
- ^ 天正10年3月17日付の蜂須賀正勝・黒田孝高連署の書状によれば、秀吉は、隆景の重臣で小早川水軍の総帥格であった乃美氏に対して、乃美氏が毛利家より離反した場合、恩賞として安芸・周防・長門及び黄金500枚を与える旨を伝えている[3]。
- ^ 藤田達生は、清水氏の本来の本拠は、備中幸山城(岡山県総社市清音)であり、水攻めの行われた高松には大きな利害の無かった勢力であるとしている[4]。
- ^ 江戸時代の頼山陽『日本外史』では、亀山城を進発する際に「信長公の閲兵を受ける」と指示したうえで桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に示したと記しているが、実際には一部の重臣しか知らなかった可能性がある。また、信忠襲撃には別働隊があたり、京に続く別の山道(俗に「明智越え」と称す)を用いたという説がある。
- ^ 『信長公記』による経過。本能寺から避難した女衆に取材したとある。
- ^ 京から200 km離れた備中高松の地で1日後に本能寺の変を察知し、対応を始めたことが後世に光秀の謀反を予見していた説や黒幕説に使われることがある[22]。
- ^ 藤田達生は、秀吉本陣と小早川隆景本陣との間が5キロメートル離れていることから、密使が敵陣に迷い込むというミスを犯す蓋然性は著しく低いと述べている[23]。
- ^ 本能寺の変が発生していなければ、信長はそのまま予定通りに秀吉の元に向かっていた筈で、秀吉が信長の動向(到着予定)を事前に知る必要性があったと考えられる。
- ^ 『毛利家文書』『當代記』などでは、黒田孝高が秀吉に対し、本能寺の変報を天の加護を得たものだ、これで何ごとも意のままになったと語ったと伝えている[26]
- ^ 秀吉と毛利の講和については、本能寺の変以前から領土画定交渉も含め進行していたとする見解がある[29]。
- ^ 隆景は自分の判断を高く評価したために毛利家は安堵しているのであると、後に周囲に自慢したという[31]。
- ^ ガラシャの幽閉先を丹後味土野の山中(京丹後市弥栄町)とする説もある。
- ^ 光秀の銀子献上に対し、正親町天皇は献上御礼の女房奉書を与えている。
- ^ 『多聞院日記』にも「順慶はかたく光秀と一味か」と記されている[46]。
- ^ 尼崎の西には、飛翔する雉を見て秀吉が光秀の伏兵を察知したという伝承地「雉ガ坂」がある。
- ^ 熱田公は、信孝・長秀の参陣を13日昼頃、山崎において合流としている[51]。また、谷口も信孝到着を13日昼としている[52]。
- ^ 『太閤記』では、天王山の争奪が戦運を左右したように記している。
- ^ 小和田哲男は、斎藤利三は山崎の戦いで戦死したとしている[57]。
- ^ このときの近江衆には池田秀雄や小川祐忠、京極高次など山崎戦後も処罰されず、豊臣政権大名となった者もいる。
- ^ 写本によっては連歌の会の日付を5月24日、5月25日と記すものがあり、信長の家臣太田牛一の著作『信長公記』では5月28日のこととしている[9]。
- ^ 京都府京田辺市の山城大橋付近という説もある。
出典
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- ^ a b 【みちものがたり】秀吉の中国大返し(岡山県~京都府)軍勢率いて200キロ 光秀討つ『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2020年9月12日(6-7面)2020年10月4日閲覧
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- ^ 小和田哲男 (2015年8月31日). “「中国大返し」で秀吉の窮地を救った策略”. 毎日新聞「経済プレミア」. 2018年12月29日閲覧。
- 1 中国大返しとは
- 2 中国大返しの概要
- 3 山崎の戦い
- 4 歴史的意義
- 5 軌跡
- 6 脚注
固有名詞の分類
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