姫路への撤退
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「中国大返し」における姫路までの行軍の実態はよくわかっていない部分も多いが、経路は山陽道の野殿(岡山市北区)を経由するルートがとられたものと考えられる。 このルートについて湯浅常山の著書『常山紀談』巻の五によると、宇喜多が明智光秀に通じており、長臣老将の面々が「秀吉の帰路を塞ぐべきや、如何せん」「さらば城中にて討取るべし。願う処の幸なり」と相議して秀吉を討取ろうとしていたが、秀吉は、6月7日の明け方に備中高松から岡山に行くと嘘の情報を流して宇喜多を欺き、「奥州驪(おうしゅうぐろ)という名馬に乗り、雑卒に交じり吉井川を渡り片上(備前市)を過ぎ、宇根(兵庫県赤穂市有年)に馳せ著けたれば馬疲れたり」としており、野殿や沼城に立寄ったとは書かれておらず、逆に討取られるのを恐れたのか、宇喜多の勢力圏内から逃げ帰るように播磨まで駆け抜けたとしている。『梅林寺文書』では五日には野殿に在陣していたとある。 秀吉軍が備中高松城の陣を引き払って撤退し、備前沼城(岡山市東区)へ向かって「中国大返し」を開始したのは、清水宗治の自刃を見送ってすぐの6月4日の午後 とする見解と、高柳光寿、池享、藤田達生らをはじめとした6月6日とする説が存在する。谷口克広もまた、『浅野家文書』や大村由己『惟任謀反記』などより6月6日未刻(午後2時頃)としている。 藤田によれば、5日のうちは毛利方の出方を見極め、6日には水攻めに用いた堤防を切って高松城包囲の陣を解いたのちの出発ということになる。この場合、堤防南端を切ることで足守川の下流一帯が泥沼の状態となれば、万一、毛利氏が追撃を決して、それを行動に移したとしても、全軍が移動するのには相当の時間がかかるだろうという計算もみえる。谷口もやはり毛利軍の出方を警戒して2日間高松に滞陣したとしており、その上で『萩藩閥閲録』を根拠に毛利軍が高松の陣を払って引き上げたのを確認してから出発したと述べている。 6月5日、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、野殿で貴下の書状を読んだが、成り行き任せで5日のうちには沼城まで行く予定であると記しており、同時に、ただ今京都より下った者の確かな話によれば、 上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。 と述べている。つまり、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れているということであり、続けて福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると記している。 これは、明らかな虚偽の情報であった。この手紙が高松の陣で書かれたのか、野殿で書かれたのかは不明であるが、本能寺の変に伴う清秀の動揺や疑心暗鬼を、偽情報を流してでも鎮めようとしたものと考えられる。秀吉は既にこの時点で、情報操作によって少なくとも清秀が光秀に加担しないように気を配り、事を自らの有利に運ぼうと画策したことが覗われる。 岡山城の東方に立地する沼城は、その姿から亀山城とも呼ばれ、岡山城に本拠を移すまで宇喜多直家の居城であり、嫡男・秀家の生まれた城であった。高松城から沼城までの距離はおよそ22キロメートルあり、重装備での行軍となった。6月6日未刻に高松を発したとする場合、沼城への入城はその日のうちのことであると思われる。 4日に高松を出発した説に従えば、4日夜は、野殿を過ぎたところで野営を行ったとみられ、沼城へは翌6月5日の昼過ぎに到着して数時間ここで休憩をとり、宇喜多勢をここに残して、秀吉の本拠地播磨国姫路城(兵庫県姫路市)へと向かったとされている。 毛利氏が絶好の上洛の機会を捨てて高松の陣を引き上げてしまったのは何故かということに関しては、谷口が『萩藩閥閲録』に「謀反した者は津田信澄・明智光秀・柴田勝家」と記されていることに着目し、もしこの情報通りであると毛利方が受け止めたなら、仮に秀吉軍を破っても明智・柴田の大軍と対峙しながら入京するのは困難だと判断したのではないかと論じている。
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