備中高松城攻めと中国大返し /天正10年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 備中高松城攻めと中国大返し /天正10年の意味・解説 

備中高松城攻めと中国大返し /天正10年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 03:40 UTC 版)

中国攻め」の記事における「備中高松城攻めと中国大返し /天正10年」の解説

詳細は「備中高松城の戦い」および「山崎の戦い」を参照 秀吉天正10年1582年3月備前備中入った3月17日当時は島であった備前児島常山城戦い岡山市南区)があったが、これは「御次公」と呼ばれた信長の4男で秀吉養子羽柴秀勝初陣であった4月中旬宇喜多勢を加えてさらに大軍率いることとなった秀吉は、備中日畑城の戦い岡山県倉敷市)で日畑景親、備前冠山城戦い岡山市北区)で林重真備前庭瀬城戦い岡山市北区)で井上有景備前加茂城の戦い岡山市北区)で桂広繁それぞれ破り備中備前における毛利方の諸城次々と陥落させていった。なお、前年死去した宇喜多直家次男でまだ12歳であった嫡子八郎は、秀吉より「秀」の字を与えられ宇喜多秀家名乗り秀吉軍と合流した一方で動揺する毛利水軍への調略おこない4月14日には毛利水軍帰属していた伊予来島氏帰順させた。これによって村上水軍毛利方と織田方に分裂し塩飽諸島秀吉属することとなった秀吉は、5月7日毛利方の勇将清水宗治の守る備中高松城岡山市北区)を攻めあぐね、水攻めにすることを決した折しも、同じ5月7日信長三男神戸織田)信孝に四国出陣条規与えたであった高松城は、三方が深い沼、一方が広い水堀となっていて、難攻不落要害であった。城の周囲築かれ堤防は、5月8日造成工事始まり19日終え作戦は、堤防内に城の西側を南流する足守川流れ引き込もうというものであった秀吉は、救援駆けつけ吉川元春小早川隆景らを将とする5万毛利軍主力全面的に対決することとなったが、折から梅雨で城の周囲浸水し毛利軍は手が出せない状況となったこうしたなか、秀吉主君信長出陣請い信長明智光秀援軍派兵決めたほか、自らも中国・四国平定のために出陣しようとしたが、その矢先天正10年6月2日ユリウス暦1582年6月21日)、京都本能寺において明智光秀謀反によって自害した本能寺の変)。 この報を得た秀吉は、信長の死を秘匿しつつ、急遽高松城清水宗治切腹毛利領国のうち備中美作伯耆の3か国の割譲条件に、毛利氏とのあいだで講和を結び、兵を明智光秀追討に向けるために撤収した秀吉側は内藤広俊、輝元側は安国寺恵瓊講和使者立てた秀吉のこの時の撤兵は、きわめて迅速かつ大規模であったために、後世中国大返し」と称せられている。 本能寺の変伝え報せ毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家覚書案文)から確認できる。この時吉川元春は秀吉軍への攻撃主張したが、弟の小早川隆景がこれを制し交戦には至らなかった。

※この「備中高松城攻めと中国大返し /天正10年」の解説は、「中国攻め」の解説の一部です。
「備中高松城攻めと中国大返し /天正10年」を含む「中国攻め」の記事については、「中国攻め」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「備中高松城攻めと中国大返し /天正10年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「備中高松城攻めと中国大返し /天正10年」の関連用語

備中高松城攻めと中国大返し /天正10年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



備中高松城攻めと中国大返し /天正10年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中国攻め (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS