備中高松城攻めと中国大返し /天正10年
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「中国攻め」の記事における「備中高松城攻めと中国大返し /天正10年」の解説
詳細は「備中高松城の戦い」および「山崎の戦い」を参照 秀吉は天正10年(1582年)3月、備前・備中に入った。3月17日、当時は島であった備前児島で常山城の戦い(岡山市南区)があったが、これは「御次公」と呼ばれた信長の4男で秀吉の養子羽柴秀勝の初陣であった。4月中旬、宇喜多勢を加えてさらに大軍を率いることとなった秀吉は、備中日畑城の戦い(岡山県倉敷市)で日畑景親、備前冠山城の戦い(岡山市北区)で林重真、備前庭瀬城の戦い(岡山市北区)で井上有景、備前加茂城の戦い(岡山市北区)で桂広繁をそれぞれ破り、備中・備前における毛利方の諸城を次々と陥落させていった。なお、前年に死去した宇喜多直家の次男でまだ12歳であった嫡子八郎は、秀吉より「秀」の字を与えられ宇喜多秀家と名乗り、秀吉軍と合流した。 一方で動揺する毛利水軍への調略もおこない、4月14日には毛利水軍に帰属していた伊予の来島氏を帰順させた。これによって村上水軍は毛利方と織田方に分裂し、塩飽諸島が秀吉に属することとなった。 秀吉は、5月7日、毛利方の勇将清水宗治の守る備中高松城(岡山市北区)を攻めあぐね、水攻めにすることを決した。折しも、同じ5月7日は信長が三男の神戸(織田)信孝に四国出陣の条規を与えた日であった。 高松城は、三方が深い沼、一方が広い水堀となっていて、難攻不落の要害であった。城の周囲に築かれた堤防は、5月8日に造成工事が始まり、19日に終え、作戦は、堤防内に城の西側を南流する足守川の流れを引き込もうというものであった。秀吉は、救援に駆けつけた吉川元春、小早川隆景らを将とする5万の毛利軍主力と全面的に対決することとなったが、折からの梅雨で城の周囲は浸水し、毛利軍は手が出せない状況となった。こうしたなか、秀吉は主君信長の出陣を請い、信長は明智光秀の援軍派兵を決めたほか、自らも中国・四国平定のために出陣しようとしたが、その矢先の天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)、京都本能寺において明智光秀の謀反によって自害した(本能寺の変)。 この報を得た秀吉は、信長の死を秘匿しつつ、急遽、高松城主清水宗治の切腹と毛利領国のうち備中・美作・伯耆の3か国の割譲を条件に、毛利氏とのあいだで講和を結び、兵を明智光秀追討に向けるために撤収した。秀吉側は内藤広俊、輝元側は安国寺恵瓊を講和の使者に立てた。秀吉のこの時の撤兵は、きわめて迅速かつ大規模であったために、後世「中国大返し」と称せられている。 本能寺の変を伝える報せが毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家の覚書(案文)から確認できる。この時吉川元春は秀吉軍への攻撃を主張したが、弟の小早川隆景がこれを制し、交戦には至らなかった。
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