姫路城への帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:34 UTC 版)
姫路城は、秀吉の中国攻め以前は姫山城といい、黒田孝高の居城であったが、天正5年(1577年)の秀吉の播磨着陣の際に孝高より秀吉に献上され、播磨を再び平定した後に改めて城が築かれ、城下町の整備が成された城であった。 沼城から姫路城までは約70キロメートルの道のりであるが、秀吉が姫路城に帰還したのは6月7日夕方とする見解が最も多い。6月4日のうちに備中高松を引き払ったとする説では姫路帰還は6月6日夜のことと考えられている。なお、藤田達生は、7日は洪水のため滞陣し、姫路到着を8日とする見解を示している。 沼城と姫路城の間には軍記物語『太平記』に「山陽道第一の難処」と記された船坂峠があり、谷が深く、道が狭隘な上に滑り易いとされていた。また、姫路城への帰還は暴風雨の中行われたという記録もあり、道筋の河川は相次いで増水したという。この時、秀吉は氾濫した川近くの農民を雇って、人の鎖をつくり、その肩に負いすがりつつ川を渡らせたという逸話が残っている。 行軍は、秀吉を先頭に2万以上の軍勢が、一部は後方の毛利軍を牽制しながらなされた。街道で道幅の狭い箇所では2間(約3.6メートル)に満たないところもあり、兵は延々と縦列になって進まざるをえないことも多かったと考えられる。これは非常に危険な行軍となったことから、秀吉自身と物資を輸送するための輜重隊とは、危険と混乱を回避するために海路を利用したのではないかという憶測も生まれた。いずれにしても、悪天候の中1日で70キロメートルの距離を走破したこととなり、これは当時にあって驚異的な速度といってよい。尚、6日に全員が姫路に到着したと考える必要はなく、翌日以降も次々と兵卒が姫路に到着したと考えるべきではないかとする指摘もある。 城郭考古学者の千田嘉博(奈良大学教授)は、兵庫城発掘調査の結果などから、秀吉が信長の中国親征などに備えて各所に休息・宿泊できる御座所(ござどころ)を整備して兵糧も蓄えていたと推測し、それが中国大返しを支えたとの説を唱えている。 本拠地姫路城に到着した秀吉軍は、6月9日朝まで滞留し、休養をとった。休養にあてた一日、秀吉は姫路城の蔵奉行を召集し、城内に備蓄してあった金銭・米穀の数量を調べさせ、これらを身分に応じて配下の将兵に悉く分与したといわれる。これは、姫路籠城の選択肢はないこと、目的は光秀討伐以外ないことを鮮明にし、決死の姿勢を示した上で、負けても姫路へは帰れないが、勝てば更なる恩賞も期待できることを示唆しての処置であったと考えられる。 一方の明智光秀は、娘ガラシャ(たま)の夫で丹後田辺城(京都府舞鶴市)の城主細川忠興とその父で足利義昭擁立以来の僚友・細川藤孝を味方に誘うなど、新体制作りに専心した。ところが、藤孝・忠興の父子は6月3日の段階で「信長の喪に服す」と称して剃髪し、中立の構えを見せることで、婉曲にこれを拒んだ。藤孝は、この時「幽斎玄旨」と名を改めて家督を忠興に譲り、忠興の正室ガラシャは丹波山中に幽閉された。なお、6月8日までの間に、秀吉方は藤孝と連絡をとっている可能性がある(後述)。 朝廷は、近江をほぼ平定した光秀に対し、6月7日、吉田兼見を勅使として安土城に派遣し、光秀の勝利を祝賀している。光秀はこれと会見し、8日には坂本城に帰った。 なお、武田勝頼に内通した疑いで天正8年に織田家より追放されていた安藤守就は、本能寺の変では光秀に呼応し、2日、子の尚就と共に美濃で挙兵したが、8日に北方城(岐阜県北方町)の城主稲葉良通(一鉄)に攻められ自害している。光秀が秀吉の行軍の情報に接したのは、同じ8日のことであった。
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