秀吉の伏見築城期から明治まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:17 UTC 版)
「巨椋池」の記事における「秀吉の伏見築城期から明治まで」の解説
天下統一を果たした豊臣秀吉は、晩年伏見城を築城し伏見に居を移した。それに伴い宇治川(巨椋池)に堤防を築き、河川改修を行った。代表的なものは以下の3件である。 槇島堤の造築 宇治橋下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、槇島堤によって分離、新たに出来た宇治川の流路は伏見城下に導かれ城の外濠の役割を果たすとともに、水位を上げたことにより城下に港の設置を可能にした。これによって、秀吉が設けた二つの城、大坂城と伏見城を水運で結ぶこととなり、政治都市伏見の繁栄を招いた。築造には前田利家が当たったと伝え、当時は左岸側のみが築造されたと考えられている。このことにより右岸側には洪水の危険をもたらすこととなった(実際、のちに木幡池など多くの池沼が右岸側に生まれた)。槇島堤は宇治堤とも呼ばれた。近年宇治市により宇治橋下流右岸で桃山期の堤の跡が発掘された。市では国の補助も受けて「太閤堤跡」として付近一帯を整備している。 宇治川上流からの水の供給を断たれた巨椋池はかろうじて下流部で狭い口により宇治川と結ばれたが、宇治川とそれに繋がる鴨川が運ぶ砂によりその口も塞がれあたかも出口を持たない沼のようになった。明治時代にはマラリヤ蚊の発生場所となり、結局干拓されることになる。 淀堤の造築 伏見から納所(現・京都市伏見区)に向けて宇治川の右岸に堤防を築き、宇治川の流路を定めた。これによって、横大路沼(よこおおじぬま、現在の伏見区横大路の京都市南清掃工場を中心とする一帯に位置した)が宇治川・巨椋池と分離された。堤上は伏見と淀城(江戸期)とを結ぶ道にもなり、江戸時代には京都を通らずに大津と大坂を結ぶ東海道五十七次の一部となった。淀堤は文禄堤とも呼ばれた。淀堤の脇には唐人雁木と呼ばれる桟橋も作られ、訪日した朝鮮通信使等も通行した。 小倉堤の造築と豊後橋の架橋 巨椋池の中を縦断する小倉堤を造り、伏見城下から向島に宇治川を渡る豊後橋(現在の観月橋)を架橋し、堤上を通り伏見と奈良の距離を縮める大和街道を新たに造った。小倉堤は巨椋堤、太閤堤とも呼ばれた。豊後橋は宇治川上流にあった宇治橋を曳いて架けたため、宇治川右岸を通り宇治町を貫いていたそれまでの大和街道は断たれることになり、京都と奈良を結ぶ人の流れはおのずと伏見城下を通ることになった。 この3つの堤のほか、大池堤、中池堤がこの時期に築かれ、巨椋池は、大池(おおいけ)、二の丸池(にのまるいけ)、大内池(おおうちいけ)、中内池(なかうちいけ)に分割された。そのため、江戸時代には一般に大池と呼ばれており、巨椋池という名が広く使われるようになったのは近代に入ってからである。
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