秀吉の子飼いから肥後の有力大名へ
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「加藤清正」の記事における「秀吉の子飼いから肥後の有力大名へ」の解説
永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。 永禄7年(1564年)、清正が3歳の時に父が死去し、母と共に津島に移った。 天正元年(1573年)、羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、近江長浜城主となったばかりの又従兄弟たる秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。 近江の守護大名佐々木氏の一族で、近江の名門である山崎片家の娘を娶り、正室とする。 天正8年(1580年)9月19日、秀吉から播磨国神東郡内に120石を与える知行宛行状(『加藤文書』)が記録上の最初の登場である。 天正10年(1582年)4月14日、中国経略中の秀吉が冠山城を攻めた時、清正は城に一番乗りを果たして、竹井将監という者を討ち取っている。 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。 天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭に叙任する。 天正14年(1586年)、秀吉の九州平定に従い、天正16年(1588年)に肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ、隈本城に入り、後の天正19年(1591年)頃よりこれに改修を加えて熊本城とした。 清正は賤ヶ岳の戦い以降、小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定に参加し、ほとんどが後備として秀吉の周囲を守るか後方支援に当たるかしていた。例えば、小牧・長久手の戦いの時に作成されたとみられる陣立書が残されているが、そこに記された加藤虎介(清正)の動員兵力はわずか150名であった。『清正記』などの清正の伝記にはいくつもの武功に関する記載と秀吉からの感状の引用が記されているが、それらは全て創作である。当時の清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であった。記録で確認できるだけでも豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官、九州平定後の上使としての戦後処理、尾藤知宣が改易されて闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまで代官として臨時に統治業務にあたる仕事などが知られている。また、和泉国の代官を務めたことで、堺の商人との関係を深めることになった。なお、清正が肥後半国を与えられた理由としては、九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いていた肥後の情勢を鑑み、長年代官を務め、九州平定・肥後国人一揆後に上使として派遣されて現地に通じている清正に肥後半国を託したと考えられている。 肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。ただし、その一方で、移封直後に発生した朝鮮半島への出兵が領国統治に暗い影を落とすことになる。 天正17年(1589年)、小西領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行、これを鎮圧している。なお、西国無比の弓取りであり、怪力無双の猛将木山正親との仏木坂での一騎打ちでは、正親が清正に馬乗りになっていたが、黄昏れて視界もきかないため、駆けつけた正親の家臣が「ご主君はいずれに」と声をかけると、清正が「(正親は)下に」とすぐに答えたため、馬乗りになっている正親の方が家臣の槍で落命し、清正は咄嗟の機転で命を拾っている。その後、正親の息子で、父親ゆずりの怪力無双の勇士であった横手五郎も、清正を亡父の仇と狙い、熊本築城の際に清正に近づいたが、見破られ城内の井戸で埋め殺しにあっている。
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