秀吉の側室に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:19 UTC 版)
天正16年(1588年)ごろ、秀吉の側室となる。 天正17年(1589年)、棄(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった。鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入して大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った。 なお、鶴松を産んだ時に高野山・持明院へ父母の肖像画をおさめるが奉納者である淀殿の記名はない。これは淀殿の豊臣政権に対する自発的な配慮によるものである。秀頼を産んだ時に父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(養源院とは浅井長政の院号であり、開基は一族の成伯)を建立した。秀吉の死後、高野山などの修復にも当たっている。
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