秀吉の奉行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/31 03:48 UTC 版)
尾張国の住民で織田信長の家臣。織田家中で祐久は主に奉行として用いられた。木下秀吉の与力であり、秀吉の昇進に従ってその代官として政務に当たる様子が見える。永禄12年(1569年)11月から12月にかけて山城法金剛院の寺領の安堵、元亀3年(1572年)6月には大徳寺からの租税に関しての仕事に従事している。 天正元年(1573年)8月、朝倉氏を滅ぼした信長は羽柴(木下改め)秀吉・明智光秀・滝川一益の3名を越前仕置きの為に派遣したが、仕置きを済ませた3人が越前を去ると織田家の代官として北ノ庄にとどめ置かれたのが祐久・三沢秀次・津田元嘉の3名であった。3名はそれぞれ仕置きを担当した羽柴・明智・滝川の代官であり、祐久は前述のように秀吉の代官として越前に残った。 当時、越前の守護代には桂田長俊(前波吉継)が任じられていたが、越前の政務の実態は信長の朱印状に基づいて北ノ庄の3人の代官が政務を執行しており、寺領の安堵や年貢・諸公事を収納する事の認可を3代官の連署で許可していたりと、越前支配の実権は3代官が掌握していた。 また、祐久は単独で書状を出す機会もあり、天正元年(1573年)11月4日付け書状では劔神社に対して社領・末社領・社家領を安堵し、臨時の課役を免除する御朱印が出されているにも関わらず、これに背く動きがあったとして、桂田長俊へも説明した事を通達し、信長の御朱印が出た以上は疎かにする事が無いよう命令している。同年12月2日には信長から諸役免除の黒印状が出ている地域で徴税を行おうとしたものが存在したため、更に諸役免除のことを書状で確認した。 こうした祐久ら代官たちが越前支配の実権を持っているという事情もあり、天正2年(1574年)1月に越前一向一揆が勃発した際には名目上の守護代であった桂田を討ち果たした富田長繁ら一揆勢は次の標的として北ノ庄の3代官の命を狙った。北ノ庄を包囲された祐久らは絶体絶命の危機に立たされたが、安居景健、朝倉景胤らの説得によってどうにか一揆勢と和睦する事ができ、3代官は北ノ庄を明け渡すと京都へと逃げ帰った。天正6年(1580年)4月、魚住隼人正と共に加賀に入って情勢を視察し、任を終えるとそれを労われ、信長より服、柴田勝家より馬を与えられている。
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