切腹事件とは? わかりやすく解説

切腹事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:23 UTC 版)

豊臣秀次」の記事における「切腹事件」の解説

文禄4年1595年6月末、突然秀次に謀反疑い持ち上がった秀次切腹事件最初に描いた太田牛一太閤さま軍記のうち』では、これを「鷹狩り号して、山の谷、峰・繁り中にて、よりより謀反談合とあい聞こえ候」と描写している。秀次を中心とする”反秀吉一派”が、鷹狩り口実にして、山中落ち合って謀議重ねているという噂があったというのであるが、これは当時の人々にとっても雲を摑むような話であり、俄かに信じがたいものであった詳細は「#粛清の理由」を参照 ししながら7月3日(または6月26日)、聚楽第石田三成前田玄以増田長盛富田左近など秀吉の奉行衆が訪れて巷説真偽詰問し誓紙提出するよう秀次に要求したのである。秀次は謀反疑い否定して吉田兼治神下ろしをさせた前で誓う起請文として7継ぎ誓紙したため逆心無きことを示そうとした。誓紙提出については『家忠日記』にも記されており、史実性は高いと考えられている。他方で『御湯殿上日記』によると、秀次は7月3日に、朝廷白銀3,000第一皇子覚深法親王)に500准三宮勧修寺晴子近衛前子)に各500八条宮智仁親王300聖護院道澄500献納している。そのため、何らかの多数派工作行ったか、または、(仮に同日であれば偶然の一致疑い招き粛清口実になったではないかとも考えられる7月5日前年春に秀次が家臣・白江備後守(成定)を毛利輝元のもとに派遣し独自に誓約交わして連判状したためている(または、輝元よりこのような申告があった)と、石田三成秀吉報告した。このことから、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」として、秀次に伏見城への出頭命じた。 しかし、この報告内容事実無根であり、秀次はすぐには応じなかったようである。『続本朝通鑑』には、5日黎明当時聚楽第近くの館にいた徳川秀忠を秀次が人質としようとしたので大久保忠隣土井利勝相談して秀忠伏見脱出させたという記述があるが真偽のほど定かではない3日どのようなやり取り出来事あったかは明らかではないが、事態思いがけぬ方向急転した。 7月8日、再び、前田玄以宮部継潤中村一氏堀尾吉晴山内一豊の5名からなる使者訪れ、秀次に伏見出頭するよう重ねて促した使者面々は、秀次の養父元宿老達で、秀吉直臣戻った人々であった。『甫庵太閤記』では、堀尾吉晴がなかなか言い出せいでいると、吉田修理亮(好寛)が割って入って、もし疑われるようなことがないのならすぐに伏見に立つように、もし野心があって心当たりがあるのならば一万軍勢預けていただければ先陣切って戦うと啖呵を切ったので、秀次はその忠勤の志に安心したが、それには及ばない出頭了承したとされる。『武家事紀』ではこれに加えて、秀次は自ら積極的に冤罪晴らすとして伏見向かったとされる一方宣教師達の所見をまとめた『日本西教史』では、この5名が五ヶ条の詰問状を示して謀反疑いで秀次を弾劾したことになっていて、清洲城蟄居するか伏見来て弁明するかを命じたので、秀次は観念して慈悲請うために伏見向かったとされている。他方、『川角太閤記』や『利家夜話』ではこれらとは異なり秀吉によって使者命じられ比丘尼孝蔵主が秀次を騙して侍医小姓衆など僅かな供廻りだけを連れて伏見にくるように謀ったとされ、もともと秀吉には直談する意思はなく、おびき出すための謀略であったとされている。 秀次は伏見到着したが、登城拝謁許されず、木下吉隆(半介)の邸宅留め置かれた。上使に「御対面及ばざる条、まず高野山登山然るべし」とだけ告げられた秀次は、すぐに剃髪染衣ていはつぜんえ)の姿となり、午後4時頃、伏見出立した監視役として木下吉隆羽田長門守正親)、木食応其木食興山)が同行したその日は玉水泊まったが、そこまで2、3百騎の御供が従っていたので、石田三成から多すぎると指摘され9日からは小姓11名と東福寺の僧である虎岩玄隆(隆西堂)のみが付き従った移動する途中で秀次左遷御見舞い飛脚次々とやってきて賑わい見せたので、駒井重勝および益田少将連絡をとって見舞い送らないように通達を出させた。この夜は興福寺中坊泊まった10日高野山青巌寺入り、この場所で秀次は隠棲の身となった以降豊臣の姓から豊禅閤ほうぜんこう)と呼ばれることがある。 秀次の妻公達らは8日の晩に捕えられて家臣徳永寿昌宅に監禁され監視役として前田玄以田中吉政付けられていたが、11日丹波亀山城移送された。12日秀吉は、さらに高野山の秀次に対して供廻り人数服装指定出入り禁止監視指図し監禁に近い厳し指示出した7月13日、『太閤さま軍記のうち』によれば四条道場にて秀次の家老の白江備後守切腹し、その妻子も後を追って自害した同じく嵯峨野二尊院熊谷直之切腹摂津国大門寺木村常陸介(重茲)が斬首され、財産没収となった。重茲の妻子は一旦は法院預かりとなったが、後に三条河原で磔にされた。 他の家臣については、一柳右近(可遊)は徳川家康に、服部采女正一忠)は上杉景勝に、渡瀬繁詮佐竹義宣に、明石左近(則実)は小早川隆景に、羽田長門守堀秀政に、前野長康景定親子中村一氏に、それぞれ身柄預けられた。粟野木工頭(秀用)は自邸にて切腹(または三条河原にて斬首)。縁者ある日野下野守清実)と山口(重勝)は北野で、丸毛不心斎は相国寺切腹吉田修理亮は逃亡した木下吉隆荒木安志(元清)、曲直瀬玄朔里村紹巴遠流とされた。 7月15日高野山福島正則池田秀雄福原長堯の3名の検使が兵を率いて現れ、秀次に賜死命令下ったことを告げた。ところが、『甫庵太閤記によれば木食応其仏教寺院内では寺法により無縁原理認められており罪人すら保護される抗議した木食応其衆徒と対応を評議すると言って引き伸ばし切腹を何とか阻止しよう食い下がったので、衆徒との間で一触即発事態となる。しかし秀吉逆らえ高野山寺院そのもの失われるという恫喝に近い福島説得があり、秀次も切腹受け入れたために対決回避された。 秀次は名刀多数所持していたが、山本主殿助、山田三十郎不破万作小姓衆は名だたる刀匠脇差賜ると、次々と腹を斬り、この3名の殉死者は秀次が自ら介錯した。虎岩玄隆太刀で自ら腹を切って果てた5番目についに秀次の番となり、雀部重政介錯により切腹し果てた享年28法名は、高野山では善正寺殿高岸道意大居士とし、菩提寺瑞泉寺では瑞泉寺殿高厳一峯道意とされている。 辞世は「磯かげののあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。 雀部重政もすぐに自害して後を追ったが、秀次の介錯用いた彼の刀、南都住金兵衛政次は、兄の雀部六左衛門の子孫に受け継がれて、現在は博物館大阪城天守閣」に寄贈されている。また青巌寺(現:金剛峯寺)の柳の間は、現在では“関白秀次自刃の間”として知られる。 秀次及び同日切腹し関係者遺体は、高野山奥の院千手院谷、光台院の裏の山に葬られ福島正則は首だけを検分のために伏見持ち帰った。 「#謀反説とその否定」および「#秀次の罪状」も参照

※この「切腹事件」の解説は、「豊臣秀次」の解説の一部です。
「切腹事件」を含む「豊臣秀次」の記事については、「豊臣秀次」の概要を参照ください。

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