秀次切腹事件とは? わかりやすく解説

秀次切腹事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)

豊臣秀吉」の記事における「秀次切腹事件」の解説

詳細は「豊臣秀次#切腹事件」を参照 文禄2年1593年8月3日側室淀殿が秀頼(拾)を産んだ秀吉新築されたばかり伏見城母子伴って移り住んだ当初秀吉聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分伏見にあって仲を取り持つつもりであった山科言経の『言経卿記』によると、9月4日秀吉日本5つ分けその内4つを秀次に残り1つを秀頼に譲ると言ったそうである。また駒井重勝の『駒井日記』(10月1日)の記述によると、将来前田利家夫妻仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させて舅婿の関係とすることで両人天下を受け継がせるのが、秀吉考えであると木下吉隆言ったという。ところが、秀頼誕生焦った秀次は「関白の座を逐われるではないか」との不安感耗弱し、次第情緒安定となった文禄4年1595年6月、秀次に謀反疑い持ち上がった7月3日聚楽第の秀次のもとへ石田三成前田玄以増田長盛宮部継潤富田一白の5人が訪れ謀反疑いにより五箇条の詰問状を示して清洲城蟄居することを促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心無きことを誓った8日、再び使者訪れ伏見出頭するよう促され、秀次は伏見城赴くが、引見許され木下吉隆邸に留め置かれその夜上使により剃髪命じられて、高野山青巌寺流罪蟄居の身となった15日、秀次の許へ上使福島正則池田秀雄福原長堯訪れ賜死命令下ったことを伝えた同日、秀次は切腹し小姓家臣らが殉死した8月2日三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室侍女らおよそ29名が処刑された。 従来、これは秀頼の誕生により秀次を疎ましく思った秀吉が、秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、これを除いたという説明なされてきた。しかし秀吉と秀次の確執については、三鬼清一郎唱えた統治権対立など様々な説があり、謀反嫌疑事実であったかどうか含めて切腹真相記した文書存在しないために未だに定かではない部分がある。史学者渡辺世祐謀反は秀次を陥れる口実であったとしている。 また、天皇代わりに政治を行う関白の職にありながら、「殺生関白」と呼ばれるなど、秀次の素行問題があったとする説は当時から存在した太田牛一の『太閤軍記の内』や『天正記』見られる次の辻斬り乱行、ジャン・クラッセの『日本西教史』に見られる「自ら罪人の首を撥ね、これを娯楽にした」や妊婦の腹を裂いての子見て楽しんだ等の悪行同様のモンタヌス日本誌』といった複数記述残っている。渡辺世祐は、秀吉愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻ぼうれい)にして関白としてあるまじき行動多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている。小和田哲男は、秀次の暴虐強調することは秀吉一族誅殺正当化するという側面もあり、多く逸話創作誇張であるとして殺生関白史実性否定し宮本義己疑問視したうえで、宮本は秀次失脚原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていた曲直瀬玄朔自宅よびよせ一件が、関白地位乱用問われる越権行為判断され失脚切腹つながったではないか指摘している。谷口克広は秀次の非行そのもの否定しないながらも、天道思想による因果応報考えによってそれが針小棒大語られている可能性指摘し『太閤記』罪状のように扱われていることには懐疑的である。

※この「秀次切腹事件」の解説は、「豊臣秀吉」の解説の一部です。
「秀次切腹事件」を含む「豊臣秀吉」の記事については、「豊臣秀吉」の概要を参照ください。

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