秀治の家老
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 22:39 UTC 版)
秀政は小田原征伐の最中に陣中で病死した。秀政の死後、子の秀治が跡継ぎにはまだ早すぎると判断した豊臣秀吉は、所領の北ノ庄を召し上げようと考え、秀治の襲封は滞った。怒った直政は次男の直寄を秀吉に使いに出し、書状で「左衛門(秀政)、多年の勤功あり、万一跡目たてられずんば、参りて御縁を汚さん」と訴えたため、秀吉は秀治の襲封を許した。慶長3年(1598年)、秀吉の命で上杉景勝を会津へ、堀秀治を越後へ移す国替えが行なわれた。越後45万石を一族と与力で統治し、春日山城に秀治、蔵王堂城に秀治の弟・親良、坂戸城に直政の次男・直寄、三条城に直政(城代に嫡男の直清)、新発田城に溝口秀勝、本庄城に村上義明(後に地名を村上に改める)が入った。
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