秀甫の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/28 13:43 UTC 版)
設立 秀和門下で当時の棋界の第一人者だった村瀬秀甫七段と、中川亀三郎六段が中心となり、1879年(明治12年)4月に囲碁研究会として「方円社」発会。「この時から秀甫が社長であった」と書かれることがあり、当該項目にもその記述があったが、林裕によると『坐隠談叢』(安藤如意著)のあいまいな記述が原因の誤解だという。 これを記念した方円社発会記念対局には、本因坊秀悦、林秀栄五段、安井算英五段などの家元四家の棋士も参加した。また毎月第3日曜に月例会を催し、秀甫の講評を付けて例会の棋譜を掲載する「囲棋新報」を月報として発刊を開始。しかし実力第一主義を謳い家元の権威を認めない方円社のやり方に、家元側の秀栄らが反発し、席次と入社時の条件不実行を理由に脱退して方円社は9月に分裂。秀栄は本因坊秀元、井上松本因碩らと図って、方円社の社員となっていた門下の段位を剥奪、方円社と秀甫に対抗するようになった。黒田俊節、梅生長江らは憤慨して家元に免状を返上。秀甫は方円社を再組織し、11月神田神保町で方円社を発会。1880年(明治13年)方円社独自の免状の発行を始める。社員の従来の段位を確認し、「囲棋新報」(第十集)の対局譜に段位を付して発表した。 1881年(明治14年)、秀甫が中川を先二に打ち込み、八段に推薦される。この年より、常置指南を置くことになり、村瀬秀甫、中川亀三郎、小林鉄次郎、水谷縫次、高橋周徳、高橋杵三郎、梅主長江、酒井安次郎、大沢銀次郎、林佐野、今井金江茂、関源吉らが交代でこの役割を担当した。1883年(明治16年)、従来の段位制を廃し、級位制を採用する。 坊社再分離 1884年(明治17年)17世本因坊となった秀栄は後藤象二郎に方円社との和解の仲裁を委ね、方円社手合に出席するようになり、12月21日には秀甫との十番碁(秀栄先)を開始する。1886年(明治19年)7月30日、秀栄は秀甫の八段を正式に認め、同時に本因坊を譲って土屋秀栄を名乗る。村瀬秀甫は18世本因坊となり、即日秀栄(五段)に七段を贈る。秀甫対秀栄の十番碁は5勝5敗の打ち分けとなるが、8月6日の最終局は秀甫の絶局となり、10月14日に秀甫没(享年49)。11月、中川亀三郎が2代目の方円社社長となる。秀栄は秀甫との、本因坊は方円社社長を兼ねるという合意に基づき中川との勝負碁を迫るが、中川は本因坊継承の意志が無いことを示して勝負を避け、これ以降再度本因坊家と方円社は分離した状態となる。
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