秀次付き家老
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天正10年(1582年)6月8日、中国大返しで姫路に帰った秀吉は、どちらも親族である三好武蔵守(吉房)と小出播磨守(秀政)の2人に留守居を命じ、もし一戦に敗れた場合は、秀吉の母も妻も一族尽くを処分し、家中に火を放てと指示していた。 天正18年(1590年)、秀次が改易された織田信雄の旧領尾張・伊勢北部5郡を与えられて大大名となると、吉房もその配下で尾張犬山城10万石を領し、翌天正19年(1591年)には犬山城主を次子・豊臣秀勝と替わり、吉房は尾張清洲城主とされた。 関白となって京都に常駐した秀次の不在時などは、家老の一人であった吉房が所領統治を代行することもあったが、その実務能力は秀吉や叔父・秀長に及ばないと言われていた実子の秀次から見てもさらに不足であったようで、「法印年寄付て、万おろかなる事之あるべく候、当座のまにあわせ異儀無き様に申し成す儀、曲事たるべき事」という天正20年(1592年)6月10日付の秀次書状が現存している。 それでも『駒井日記』によると、文禄2年(1593年)12月11日、尾張の蔵入地から1万2,200石を加増されたという。
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