切腹説の流布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 03:08 UTC 版)
戦後、名古屋市の戦災復興事業に伴い市内に点在する寺院の墓所を平和公園へ移すことが決まり、胤臣が埋葬されていた大光院でも墓地の改葬作業が行なわれた。 1952年5月11日、土中から胤臣の棺を引き上げる際に木棺の蓋がはずれて遺体が露出する事態が起きる。胤臣の遺体は屍蝋化した状態であったが、棺の中に血の付いたと思しき布があったことから「胤臣は飛島新田開発による藩庫窮迫の責任を負って切腹した」との風説が流れることとなった。胤臣の死因については尾張藩の『藩士名寄』において病死と記されており、後述する「津金君遺愛碑」にも「微疾あり」との記述があって、亡くなる直前には療養中であったことが伺える。また、津金家の子孫にも切腹したという話は伝わっておらず、そもそも遺体は体を折り曲げた姿勢だったため、傷口などを確認できる状態ではなかったのだが、日本画家の山田秋衛が同年に『郷土文化』第七巻・第四号に寄せた一文で発掘の様子を記し、ここで「調査研究の何物にも立ち入っていない」と断りを入れながらも先に記した「胤臣切腹説」を挙げており、この影響が少なくないと考えられる。
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