輝元出頭人としてとは? わかりやすく解説

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輝元出頭人として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 07:39 UTC 版)

堅田元慶」の記事における「輝元出頭人として」の解説

永禄11年1568年)、粟屋元通次男三男とも)として誕生毛利輝元近習として召し出されて、寵愛される。 天正10年1582年)に元服して、元勝と名乗る行政手腕優れていたことから輝元や小早川隆景信任を受け、子の無かった小早川隆景養子として認められた。 しかし、元慶はそれを辞退し天正10年から天正13年までの間に長門国堅田から「堅田」の名字名乗った。隆景の養嗣子にはならなかったものの、それ以後も隆景から寵愛を受け、天正13年1585年)に隆景が伊予国移封された際には、それまで隆景の本拠であった三原城預けられることとなる。 天正16年1588年7月、輝元に随行し上洛豊臣秀吉にも気に入られ大坂城にも出仕して豊臣姓を下賜され同年7月26日従五位下兵部少輔叙任される厚遇受けたまた、7月28日に輝元の参議任官式が宮中行われた際には、冠と赤装束着用し輝元の供として従った。 また元慶対す厚遇は、出仕十年足らずの間に急速に加増された知行高からも窺われる元慶庶子であったため知行無しの状態から近習として輝元に仕え始めたが、天正19年1591年)頃のものとされる「八ヶ国御時分限帳」には元慶所領として安芸国周防国長門国出雲国の4ヶ国に渡って7438石9升と記されている。田中誠二研究によれば「八ヶ国御時分限帳」に記され石高は本来の知行高の6~7割ほどにあたる年貢高であったことから、実際に1万程度知行していたと考えられている。 天正20年1592年)に始まる文禄の役では輝元に従って朝鮮半島上陸し毛利軍一員として戦っているが、出兵準備中同年4月元慶家臣2名が博多市中の者と口論になって最終的に博多豪商神屋宗湛打擲してしまうという事件が発生し博多にいた秀吉の奉行衆がこの事件聞きつけて騒ぎとなった。この事件に対して、輝元は先手打って当事者である元慶家臣2名を処分し神屋宗湛には治療費用として見舞銀を送っている。さらに元慶騒動巻き込まれ秀吉奉行衆追及を受けることを避けるために、元慶を船に隠して壱岐国へと渡海した。なお、神屋宗湛さしたる怪我無く事件直後茶会出席している。 た文禄2年1593年8月以降、輝元が朝鮮から帰国すると、毛利氏中央行政は、元慶佐世元嘉二宮就辰榎本元吉張元至の5人の輝元出頭人が担うようになった。この5人は様々な出自経歴を持つ人物たちで、出自家格とらわれず能力評価基づいて人材登用を図る輝元の姿勢窺える文禄年間慶長年間始めには、輝元と共に度々上洛して取次役を務めたり、毛利氏奉行人連署奉書加判したりする等の活動見られる慶長5年1600年)、元慶組頭大和守に任じられた。同年関ヶ原の戦いにおいては四国方面経略進めと共に、輝元の側近として大坂城入って各方面へ輝元の指示伝えており、関ヶ原での決戦2日前である9月13日付けの、大津城攻略に手こずっていた清水景治に対して厳し調子責め立てる書状等が残っている。

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輝元出頭人として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 15:39 UTC 版)

張元至」の記事における「輝元出頭人として」の解説

明か来日し山口大町屋敷構えていた医師の張忠の子として誕生始めは張思朝と名乗り天正16年1588年以降張元至改名。父が来日後も姓を改めなかったため、漢姓日本通称合わせて張唐兵衛尉と名乗り天正16年1588年以後は張六左衛門尉名乗った永禄8年1565年)に父の跡を継ぐその後佐世元嘉二宮就辰と共に毛利輝元近侍し、天正15年1587年)に讃岐守を受領した天正20年1592年)から始まる文禄の役では、輝元の側近として渡海しており、文禄2年1593年8月帰国して以降、元至は佐世元嘉二宮就辰榎本元吉堅田元慶と共に毛利家中央行政を担うこととなる。この5名の輝元出頭人それぞれ様々な出自経歴を持つ人物であるが、元至のように帰化人大名権力中枢担った例は全国的にも稀であり、出自家格とらわれず能力評価基づいて登用を図る輝元の姿勢窺える。この登用以後、元至や二宮就辰木原元定らは代官として、毛利家領国内の都市派遣された。 文禄4年1595年)に輝元の子毛利秀就生まれ慶長3年1598年)に秀就が輝元の後継者として豊臣政権公認されると、国司元蔵児玉元経と共に秀就付き家老となり、併せて周防国長門国のうちに2863余石の知行与えられた。以後は秀就付き家老として広島いながら内政補助を行うようになる慣例では毛利家次期当主傅役粟屋氏国司氏務めていたが、この時は粟屋氏からの選任がなかった一方で明からの帰化人という異例経歴を持つ元至が選ばれた。このことは輝元が伝統的な家中構造超克し、自らの絶対性を確立しつつあったことを示している。

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