輝元期の隆通とは? わかりやすく解説

輝元期の隆通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 14:28 UTC 版)

山内隆通」の記事における「輝元期の隆通」の解説

元亀2年1571年6月14日毛利元就死去した翌年元亀3年1572年)、毛利輝元から忠誠心疑われたのか、隆通は熊谷信直仲介として、輝元へ変わらず忠誠を尽くすことを誓い、その証として輝元に太刀一腰と金覆輪の鎧、輝元の側近である児玉元良に銭200疋を贈っている。これを受けて輝元は、同年7月25日山内隆通・元通父子に対して今後何人告げ口をしようとも山内父子忠誠心を疑う事は無いと起請文誓っている。そして、同年7月28日、隆通と元通は吉川元春・元長父子に対して山内氏が輝元に対して異心抱いていないことは輝元が納得したので、少しでも疑うことがあれば直接お尋ね頂き今後とも吉川氏指南扶助得たい旨を起請文伝え内容偽りのないことを誓約した同年8月1日吉川元春・元長父子起請文で、今後如何なる事があっても山内氏を疑う事はなく、山内元通と吉川元長兄弟契約を結ぶ上は今後とも両家懇意にすることを誓約した天正4年1576年)、織田信長に京を追われ将軍足利義昭毛利輝元勢力であった備後国の鞆に移ると、輝元は隆通に対して義昭への援助命じた。隆通は滑良通泰を鞆に派遣し足利義昭とその家臣数々贈物をし、これに対して安国寺恵瓊は「面目至り大慶これに過ぐべからず候」と書き送っている。 天正7年1579年7月15日、隆通の嫡男・元通が父に先立ち33歳死去した。元通に庶子の千法師(後の佐々部元宗)がいたが、隆通は次男千代丸(後の山内広通)を元通の養子として後継据え熊谷信直宍戸隆家通じて吉川元春働きかけ、広通への家督相続許可を輝元に求めた。輝元は同年8月17日宍戸隆家宛て書状において広通の家督相続許可出した。隆通父子はその御礼として、輝元に太刀一腰と馬一疋宍戸隆家太刀一腰馬代送り天正8年1580年9月5日には宍戸隆家に対して疎意無きことを誓約した。これに対して宍戸隆家・元孝父子同年9月6日山内父子起請文提出した。隆家の祖父元源や父元家を通じて宍戸氏山内氏因縁浅からず、また隆家が幼少の頃数年渡って隆通の祖父直通養育された恩は忘れ難いとして、宍戸氏山内氏に対して疎略無き事誓約した同年10月には祝儀として、隆通が宍戸隆家太刀一腰青銅1000疋を贈っている。

※この「輝元期の隆通」の解説は、「山内隆通」の解説の一部です。
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