輝元期の隆通
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元亀2年(1571年)6月14日に毛利元就が死去した翌年の元亀3年(1572年)、毛利輝元から忠誠心を疑われたのか、隆通は熊谷信直を仲介として、輝元へ変わらず忠誠を尽くすことを誓い、その証として輝元に太刀一腰と金覆輪の鎧、輝元の側近である児玉元良に銭200疋を贈っている。これを受けて輝元は、同年7月25日に山内隆通・元通父子に対して、今後は何人が告げ口をしようとも山内父子の忠誠心を疑う事は無いと起請文で誓っている。そして、同年7月28日、隆通と元通は吉川元春・元長父子に対して、山内氏が輝元に対して異心を抱いていないことは輝元が納得したので、少しでも疑うことがあれば直接お尋ね頂き、今後とも吉川氏の指南・扶助を得たい旨を起請文で伝え、内容に偽りのないことを誓約した。同年8月1日に吉川元春・元長父子は起請文で、今後は如何なる事があっても山内氏を疑う事はなく、山内元通と吉川元長が兄弟の契約を結ぶ上は今後とも両家が懇意にすることを誓約した。 天正4年(1576年)、織田信長に京を追われた将軍・足利義昭が毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆に移ると、輝元は隆通に対して義昭への援助を命じた。隆通は滑良通泰を鞆に派遣し、足利義昭とその家臣に数々の贈物をし、これに対して安国寺恵瓊は「面目の至り、大慶これに過ぐべからず候」と書き送っている。 天正7年(1579年)7月15日、隆通の嫡男・元通が父に先立ち33歳で死去した。元通には庶子の千法師(後の佐々部元宗)がいたが、隆通は次男の千代丸(後の山内広通)を元通の養子として後継に据え、熊谷信直と宍戸隆家を通じて吉川元春に働きかけ、広通への家督相続の許可を輝元に求めた。輝元は同年8月17日に宍戸隆家宛ての書状において広通の家督相続の許可を出した。隆通父子はその御礼として、輝元に太刀一腰と馬一疋、宍戸隆家に太刀一腰と馬代を送り、天正8年(1580年)9月5日には宍戸隆家に対して疎意無きことを誓約した。これに対して宍戸隆家・元孝父子も同年9月6日に山内父子に起請文を提出した。隆家の祖父元源や父元家を通じて宍戸氏と山内氏は因縁浅からず、また隆家が幼少の頃数年に渡って隆通の祖父・直通に養育された恩は忘れ難いとして、宍戸氏も山内氏に対して疎略無き事を誓約した。同年10月には祝儀として、隆通が宍戸隆家に太刀一腰と青銅1000疋を贈っている。
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