輝元の上洛計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)
天正6年10月、摂津国を支配していた荒木村重が織田氏に反旗を翻した。輝元は6月の時点から村重に調略を進めており、それが成功したのであった。また、村重は信長から摂津の支配のみならず、播磨の諸勢力との取次も任されていた。 村重の離反は播磨の諸勢力が毛利氏に同調する契機となり、御着の小寺氏、志方の櫛橋氏、野間の在田氏、長水の宇野氏らが毛利氏側に付いた。村重のもとには黒田孝高が説得に赴いたが、逆に幽閉されている。これにより、輝元は播磨を混乱状態に追いやり、その影響力を播磨に浸透させた。 だが、輝元には宇喜多直家の存在という誤算もあった。播磨の諸勢力の中で、龍野の赤松広秀や置塩の赤松則房も毛利氏に味方したいと申し出たが、直家が反対したため、両者は宇喜多勢が攻略することとなった。直家が反対した理由に関しては、赤松氏の領土が宇喜多氏の領土に隣接しており、その支配下に置いておきたかったからだとされる。 11月4日、輝元と本願寺に対して、朝廷から信長と講和するよう正親町天皇の勅命が下された。信長としては村重を再三説得するための時間稼ぎであったが、両者はこの勅命による講和を拒否した。 このような状況下、輝元自らが軍勢を率いての上洛が計画されるようになった。義昭は村重の調略に関与していたが、輝元に11月24日付の元春宛書状でこの機を逃さずに上洛するように命じている。このとき、同盟関係にあった武田勝頼からも、すぐさま上洛を求められている。 12月、輝元は出陣を決意し、毛利氏有利のこの好機に乗じて上洛しようとした。そして、輝元出陣の日は天正7年1月16日と定められ、諸将に下令された。輝元はそれに伴い、武田勝頼に徳川家康を攻撃し、織田氏の兵力を引き付けるよう要請している。 だが、輝元の上洛計画は期日を過ぎても実行には移されなかった。毛利氏有利の状況下にあるにもかかわらず、上洛計画が実行に移されなかったのは、大友義鎮に唆された市川元教や杉重良による謀反が勃発し、毛利氏内部が動揺していたことにあった。また、備中・美作の国人領主に対して、信長の調略の手が伸びていたこともあった。 輝元に対して、その上洛を反対したのは隆景であったと考えられている。輝元が祖父・元就の支配地域以上の領域を手に入れ、将軍・義昭を庇護する副将軍として有頂天となり、信長の調略や家中の謀反も顧みずに上洛を考えている姿を見て、隆景は危機感を覚え、これ以上の戦線拡大は危険と判断したからだとされる。 結局、輝元は隆景の説得を受け入れ、上洛を断念した。義昭からその後も再三にわたり出陣を命じられたが、輝元が動くことはなかった。
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