輝元期
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元亀2年(1571年)6月14日に元就が死去。翌6月15日に輝元は豊景・信景父子に書状を出し、「元就の死去は是非に及ばぬことであるが、老齢であったため覚悟していた。今後も変わらず相談するつもりであるので、言うまでも無いことであるが御昵懇に預かれれば本望である」と述べている。 天正2年(1574年)に毛利氏は宇喜多直家と結んだが、三村元親にとって宇喜多直家は父・三村家親の仇であり不倶戴天の敵であった。そのため元親は宇喜多直家を討たんと織田信長と結び毛利氏から離反した(備中兵乱)。信景の嫡男・元兼は三村元親の妹婿であったため、輝元は元兼が元親の離反に応じないよう、元兼の居城である美作国月田城に木原左馬允を入れて元兼を監視させた。また、閏11月14日に輝元は豊景と信景に書状を送り、まずは三村氏の猿掛城攻略のため、閏11月20日に猿掛城西方2里にあたる備中国小田郡小田に着陣するので、御辛労ながら閏11月18日に小田へ参陣するよう依頼している。ただし輝元はこの後で予定を変更し、先に小田の北方4里にある備中国吉城攻撃を行い、天正3年(1575年)1月1日に陥落させた。また三村元範の守る楪城攻略でも豊景は武功を立て、同年11月6日に輝元から太刀一腰と馬一匹を与えられた。 天正6年(1578年)7月5日、上月城の戦いで尼子勝久ら尼子再興軍が毛利氏に降伏。尼子勝久は自害し、山中幸盛と立原久綱は備中松山城に在陣する毛利輝元の元へ連行されることとなる。これに対し豊景は、小早川隆景に祝儀として太刀一腰と青銅百疋を送った。隆景は7月10日に豊景に感謝の意を表すと共に、体調を崩していた豊景を気遣って養生が肝要であるとの書状を送っている。 天正8年(1580年)3月14日、元就以来の数々の武功に対する度々の愁訴を受けて、豊景には美作国真島郡垂水500貫の内の300貫の地を与えられた。 天正10年(1582年)、元就の娘婿である上原元将が羽柴秀吉の調略を受けて毛利氏を離反した際、小早川隆景は豊景に「一門である上原元将でさえ敵となって毛利氏に味方する国々も心もとない」と相談した。豊景は人質として孫五郎・右衛門兄弟と中務少輔を人質として隆景の陣所に送り、木梨隆言、有地隆盛、古志重信、久代修理亮の人質は豊景の陣所に置かれることとなった。 没年は不明。
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輝元期
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元亀2年(1571年)6月14日に元就が死去。翌6月15日に輝元は豊景・信景父子に書状を出し、「元就の死去は是非に及ばぬことであるが、老齢であったため覚悟していた。今後も変わらず相談するつもりであるので、言うまでも無いことであるが御昵懇に預かれれば本望である」と述べている。また、この頃に信景は元就の9男・才菊丸(後の小早川秀包)の備後大田氏相続に協力した。 元亀3年(1572年)、信景は小早川隆景に酒肴を送り、隆景は閏1月21日に信景の好意に礼を述べ、同時に同年春の軍事行動に力を尽くすよう下知した。 天正2年(1574年)に毛利氏は宇喜多直家と結んだが、三村元親にとって宇喜多直家は父・三村家親の仇であり不倶戴天の敵であった。そのため元親は宇喜多直家を討たんと織田信長と結び、毛利氏から離反した(備中兵乱)。信景の嫡男・元兼は三村元親の妹婿であったため、輝元は元兼が元親の離反に応じないよう、元兼の居城である美作国月田城に木原左馬允を入れて元兼を監視させた。また、閏11月14日に輝元は豊景と信景に書状を送り、まずは三村氏の猿掛城攻略のため、閏11月20日に猿掛城西方2里にあたる備中国小田郡小田に着陣するので、御辛労ながら閏11月18日に小田へ参陣するよう依頼している。ただし輝元はこの後で予定を変更し、先に小田の北方4里にある備中国吉城攻撃を行い、天正3年(1575年)1月1日に陥落させた。また三村元範の守る楪城攻略にも参加した。 山陰攻略の頃から楢崎氏は小早川隆景の麾下で戦っていたためか、天正13年(1585年)の小早川家の座配において「楢崎殿」と記されており、これは信景あるいは元兼を指すとされる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いによって毛利氏が防長2ヶ国へ減封されると、信景は慶長6年(1601年)11月25日に輝元から給地100石を与えられた。 没年は不明。
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輝元期
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永禄12年(1569年)、尼子勝久や山中幸盛らが尼子再興軍を率いて出雲国へ侵攻したため、毛利輝元は翌永禄13年(1570年)に出陣し、布部山の戦いにて尼子再興軍を打ち破った。元亀2年(1571年)の檜ヶ山城改修では春良自ら鍬を取って普請を急ぎ、吉川元春が思う以上の速さで普請を終わらせた。この春良の働きに元春は深く感謝し、直接対面で感謝の意を述べている。また、同年に自領に宇佐八幡宮を勧請して、松尾山八幡宮を建立した。 天正2年(1574年)、毛利氏が宇喜多直家と結んだことに反発した備中の三村元親が毛利氏から離反すると、春良はその鎮圧に従軍。翌天正3年(1575年)2月9日には、同年1月に陥落させた国吉城の城督に春良が任じられ、備中国内の鎮撫にあたっている。天正4年(1576年)8月23日には備中国川上郡の手荘700貫と阿賀郡の中津井の内の300貫、合計1000貫を輝元から与えられた。 天正6年(1578年)の4月から7月にかけて行われた上月城の戦いにも出陣し、尼子再興軍降伏の起請文に毛利側の代表として名を連ねた。なお、この戦いの最中である4月24日に兄・広通が死去し、広通の嫡男である通平が後を継いだ。 天正10年(1582年)7月28日には父・通良が死去した。
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