輝元期とは? わかりやすく解説

輝元期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:24 UTC 版)

楢崎豊景」の記事における「輝元期」の解説

元亀2年1571年6月14日元就死去。翌6月15日に輝元は豊景・信景父子書状出し、「元就死去是非に及ばぬことであるが、老齢であったため覚悟していた。今後変わらず相談するつもりであるので、言うまでも無いことであるが御昵懇に預かれれば本望である」と述べている。 天正2年1574年)に毛利氏宇喜多直家結んだが、三村元親にとって宇喜多直家は父・三村家親の仇であり不倶戴天の敵であった。そのため元親は宇喜多直家を討たんと織田信長と結び毛利氏から離反した備中兵乱)。信景の嫡男・元兼は三村元親妹婿であったため、輝元は元兼が元親の離反応じないよう、元兼の居城である美作国月田城に木原左馬允入れて元兼を監視させた。また、11月14日に輝元は豊景と信景に書状送り、まずは三村氏猿掛城攻略のため、閏11月20日猿掛城西方2里にあたる備中国小田郡小田着陣するので、御辛労ながら閏11月18日小田へ参陣するよう依頼している。ただし輝元はこの後予定変更し先に小田北方4里にある備中国城攻撃を行い天正3年1575年1月1日陥落させた。また三村元範の守る城攻略でも豊景は武功立て同年11月6日に輝元から太刀一腰と馬一匹与えられた。 天正6年1578年7月5日上月城の戦い尼子勝久尼子再興軍が毛利氏降伏尼子勝久自害し山中幸盛立原久綱備中松山城に在陣する毛利輝元元へ連行されることとなる。これに対し豊景は、小早川隆景祝儀として太刀一腰青銅百疋を送った。隆景は7月10日に豊景に感謝の意を表すと共に体調崩していた豊景を気遣って養生肝要であるとの書状送っている。 天正8年1580年3月14日元就以来数々武功対する度々の愁訴受けて、豊景には美作国真島郡垂水500貫の内の300貫の地を与えられた。 天正10年1582年)、元就娘婿である上原元将羽柴秀吉調略受けて毛利氏離反した際、小早川隆景は豊景に「一門である上原元将でさえ敵となって毛利氏味方する国々心もとない」と相談した。豊景は人質として孫五郎・右衛門兄弟中務少輔人質として隆景の陣所送り木梨隆言、有地隆盛古志重信久代修理亮人質は豊景の陣所置かれることとなった没年不明

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輝元期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/05 17:56 UTC 版)

楢崎信景」の記事における「輝元期」の解説

元亀2年1571年6月14日元就死去。翌6月15日に輝元は豊景・信景父子書状出し、「元就死去是非に及ばぬことであるが、老齢であったため覚悟していた。今後変わらず相談するつもりであるので、言うまでも無いことであるが御昵懇に預かれれば本望である」と述べている。また、この頃に信景は元就の9男・才菊丸(後の小早川秀包)の備後大田氏相続協力した元亀3年1572年)、信景は小早川隆景酒肴送り、隆景は閏1月21日に信景の好意に礼を述べ同時に同年春の軍事行動力を尽くすよう下知した。 天正2年1574年)に毛利氏宇喜多直家結んだが、三村元親にとって宇喜多直家は父・三村家親の仇であり不倶戴天の敵であった。そのため元親は宇喜多直家を討たんと織田信長と結び、毛利氏から離反した備中兵乱)。信景の嫡男・元兼は三村元親妹婿であったため、輝元は元兼が元親の離反応じないよう、元兼の居城である美作国月田城に木原左馬允入れて元兼を監視させた。また、11月14日に輝元は豊景と信景に書状送り、まずは三村氏猿掛城攻略のため、閏11月20日猿掛城西方2里にあたる備中国小田郡小田着陣するので、御辛労ながら閏11月18日小田へ参陣するよう依頼している。ただし輝元はこの後予定変更し先に小田北方4里にある備中国城攻撃を行い天正3年1575年1月1日陥落させた。また三村元範の守る城攻略にも参加した山陰攻略の頃から楢崎氏は小早川隆景麾下戦っていたためか、天正13年1585年)の小早川家座配において「楢崎殿」と記されており、これは信景あるいは元兼を指すとされる慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いによって毛利氏防長2ヶ国へ減封されると、信景は慶長6年1601年11月25日に輝元から給地100石を与えられた。 没年不明

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輝元期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 02:48 UTC 版)

口羽春良」の記事における「輝元期」の解説

永禄12年1569年)、尼子勝久山中幸盛らが尼子再興軍を率いて出雲国侵攻したため、毛利輝元は翌永禄13年1570年)に出陣し布部山の戦いにて尼子再興軍を打ち破った元亀2年1571年)の檜ヶ山城改修では春良自ら鍬を取って普請急ぎ吉川元春が思う以上の速さ普請を終わらせた。この春良の働きに元春は深く感謝し直接対面感謝の意述べている。また、同年に自領に宇佐八幡宮勧請して、松尾山八幡宮建立した天正2年1574年)、毛利氏宇喜多直家結んだことに反発した備中三村元親毛利氏から離反すると、春良はその鎮圧従軍。翌天正3年1575年2月9日には、同年1月陥落させた国吉城の城督に春良が任じられ備中国内の鎮撫にあたっている。天正4年1576年8月23日には備中国川上郡の手700貫と阿賀郡中津井の内の300貫、合計1000貫を輝元から与えられた。 天正6年1578年)の4月から7月にかけて行われた上月城の戦いにも出陣し尼子再興降伏起請文毛利側の代表として名を連ねた。なお、この戦い最中である4月24日に兄・広通が死去し、広通の嫡男である通平が後を継いだ天正10年1582年7月28日には父・通良が死去した

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