堅田元慶とは? わかりやすく解説

堅田元慶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 07:39 UTC 版)

堅田 元慶(かただ もとよし、永禄11年〈1568年〉- 元和8年〈1622年〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将毛利氏小早川氏の家臣。


注釈

  1. ^ 口宣案上卿大納言・烏丸光宣、奉者は蔵人右少弁・中御門宣泰。叙任時の名義は「豊臣元慶」で、同日には口羽春良も叙任されている。
  2. ^ 元慶の他には小早川隆景吉川広家が冠と黒装束を、穂田元清福原元俊口羽春良渡辺長三浦元忠林就長が元慶と同様に冠と赤装束を、粟屋元種国司元蔵折烏帽子と風折狩衣を、その他の供衆は烏帽子直垂をそれぞれ着用し、輝元の供として従った。
  3. ^ 元慶の罪を問おうと考えていた徳川家康に対して本多正信は、元慶は主君である輝元の命を受けて行動しただけであって、家臣としては主命に従わざるを得なかったと執り成している。
  4. ^ 慶長15年(1610年8月30日の知行方目録では6268石4升7合。内訳は周防国熊毛郡で709石3斗3升、周防国佐波郡で605石1斗7升5合、長門国大津郡で4953石5斗4升2合。
  5. ^ 元和5年(1619年3月13日の宛行領地目録では6536石5升6合。内訳は、周防国熊毛郡では伊保木368石7斗6合、室積の内の岩屋105石7斗6升1合、別府562石5斗3升、大野村212石1斗9升6合、吉井村市の塩田・笠野283石8斗6升1合、小郡228石4斗6升6合、麻郷村1413石6斗7合、光井村968石9斗4升、室積浦役1584石9斗8升2合、島田村皆瀬山役1石5斗、普賢寺領22石2合。周防国佐波郡では伊佐江・塩浜562石2斗7升9合、大塚村41石8斗9升4合。長門国阿武郡では篠目・細野179石3斗3升2合。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 田村哲夫編修 1980, p. 112.
  2. ^ 『宍戸家文書』複写史料「江田家系」(山口県文書館)
  3. ^ 山田恒嘉編 山田恒通跋『長陽従臣略系』(東京大学史料編纂所公開用データベース)
  4. ^ 堅田大和書付。


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