烏丸光宣とは? わかりやすく解説

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烏丸光宣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/09 02:31 UTC 版)

 
烏丸 光宣
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文18年(1549年
死没 慶長16年11月21日1611年12月24日
改名 光宣→覚融(法名)
別名 号:顕性院、一字名:丁
官位 従一位准大臣
主君 後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇後水尾天皇
氏族 烏丸家
父母 父:烏丸光康、母:不詳
兄弟 女(広橋国光室)、男、光宣、女(正親町季秀室)、女(五条為経室)、女(広橋兼勝室)
入江殿(足利義晴の娘)、ほか
光広、女(日野資勝室)、女
花押
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烏丸 光宣(からすまる みつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿官位従一位准大臣[1]

生涯

天文18年(1549年)、烏丸光康の子として誕生[2]

永禄12年(1569年)8月14日、光宣は父の光康、山科言継飛鳥井雅春と共に、岐阜城織田信長のもとに赴き、鳥一羽、太刀(金作り)、馬代(金十両)、居唐金鉢を贈った[3]

元亀2年(1571年)4月14日、光宣の妻・入江殿(将軍・足利義昭の姉)が急死すると、後難を恐れた光宣は出奔した[4]。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[4]。また、光宣の出奔により、父の光康が閉門処分となった。

元亀3年(1572年)9月、信長が義昭に対し、異見十七ヶ条を提出した。信長はその中で、光宣に対する処置は妥当とするものの、父の光康を赦免するように申し上げたと記している[5]

天正5年(1577年)正月5日、参議となる[1]

天正9年(1581年)2月28日、信長が行った京都御馬揃えにおいて、公家衆の一人として参加した。

慶長16年(1611年) 11月21日、薨去[2]。享年63[2]

人物

脚注

  1. ^ a b 公卿補任
  2. ^ a b c d 「烏丸光宣」デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  3. ^ 『言継卿記』永禄12年8月14日条
  4. ^ a b 木下 2014, 「足利義昭期の昵近公家衆と山科言継をめぐって」
  5. ^ 『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著、中川太古 訳 - 新人物文庫 - 189 - 194ページ

参考文献

関連項目



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