信長との決裂
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元亀2年(1571年)2月、義昭は豊後の大友宗麟に対して、安芸の毛利氏との和睦を命じている。 4月14日、烏丸光宣に嫁いでいた義昭の姉が急死すると、後難を恐れた光宣が出奔した。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている。 6月11日、義昭は養女を筒井順慶に嫁がせ、順慶を自らの陣営に加えた。これは5月に松永久秀が畠山秋高方の交野城を攻め、秋高の援護のために摂津の和田惟政が出陣するなど、不穏な空気が流れたからであった。また、久秀と順慶は大和国をめぐる争いを、元亀元年より前から続けていた。 6月19日、松永久秀が三好三人衆と組み、河内の畠山秋高の居城・高屋城を攻め、義昭から離反した。 同月、義昭と同盟した順慶が奈良に侵攻し、義昭もまた順慶を支援するため、奉公衆の三淵藤英と山岡景友を援軍として送った。これに対し、久秀は松永久通や三好義継らとともに順慶の辰市城を攻め、8月に両軍が激突した。久秀はこの戦いで大敗を喫し、多くの首が二条御所の義昭のもとに送られ、御所内でさらされた。 だが、久秀は三好三人衆と連携して巻き返しを図り、8月28日に摂津の和田惟政を攻め、これを討ち取った。 11月、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった。 12月17日、三好氏が盟主と仰いでいた細川六郎が義昭の軍門に下り、上洛して義昭に謁見し、義昭から「昭」の一字を与えられ、昭元と名乗った。 元亀3年(1572年)1月18日、義昭の面前において、上野秀政と細川藤孝が信長の比叡山焼き討ちに関して激論を交わした。この時点で、幕臣は親信長派と反信長派に分裂していた。 閏1月4日、畠山秋高と遊佐信教が義昭を裏切るとの風聞が流れ、義昭は秋高と信教に「三好・松永は敵」との書状を送り、離反しないように求めている。 4月13日、細川昭元が義昭を裏切ると風聞が流れた。 4月16日、久秀と義継が畠山秋高方の交野城を攻め、摂津でも伊丹親興や和田惟長が義継に内通する動きを見せた。久秀と義継はまた、細川昭元を盟主とする動きを見せた。結果として、昭元や畠山高政、畠山秋高、遊佐信教、親興や惟長は義昭を裏切らなかったが、畿内はいつ誰が義昭を裏切るかわからない不安定な情勢となった。 5月8日、義昭は山岡景友を山城守護に補任したが、それはこのような畿内の情勢に対抗する備えであった。義昭はまだこの時点においては、信長を裏切るつもりはなかったと考えられるが、三好方が連合を図ったことにより、義昭は畿内において孤立することになった。 9月、信長は義昭に対して、自身の意見書である異見十七ヶ条を送付した。この意見書は義昭の様々な点を批判しており、とくにかつて殺害された過去の将軍の名を出したこともあって、これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになった。 10月、甲斐の武田信玄が進軍を開始し、三河・遠江に侵攻した。通説では、義昭が異見十七ヶ条に反発し、信玄に内通した結果とされてきたが、近年ではこの侵攻は徳川家康を標的にしたものであり、義昭が通じたものではないとする見方もある。 また、同月に信長は妙心寺に寺領安堵の朱印状を発給したが、これは義昭の意思に基づいて安堵されたものであった。この時点では、義昭は信長と対立することなく、協調して京都の支配を行っている。 とはいえ、信長にとって、徳川家康は盟友であり、信玄が徳川領に侵攻したことは、信長に矛を向けるということに等しかった。これまで、信長は武田氏と上杉氏の和睦を仲裁してきたこともあって、この侵攻に激怒して武田氏と絶交し、家康に援軍を送った。他方、信玄は朝倉氏や浅井氏、本願寺などの反信長勢力と手を組んだ。 12月22日、信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康の軍勢を破ると、信長は本国である尾張・美濃の防衛を迫られることになり、窮地に陥った。信玄の破竹の進撃により、幕府の内部では「信長に付くか、信玄に付くか」で議論が交わされ、幕臣の多くが信玄の支持に回り、それが義昭と信長との離間に繋がったとする見方もある。また、信長が尾張と美濃の防衛に精鋭を割いて京が手薄になると、そこを反信長派に大挙して衝かれる可能性があったことも、義昭を離反に走らせた可能性がある。いずれにせよ、三方ヶ原の戦いの結果が義昭の決断につながったことは間違いないと考えられる。
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