信長との決裂とは? わかりやすく解説

信長との決裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「信長との決裂」の解説

元亀2年1571年2月義昭豊後大友宗麟に対して安芸毛利氏との和睦命じている。 4月14日烏丸光宣嫁いでいた義昭の姉が急死すると、後難恐れた光宣出奔した。これに激怒した義昭は、同月28日一色藤長らに烏丸邸を襲わせている。 6月11日義昭養女筒井順慶に嫁がせ、順慶を自らの陣営加えた。これは5月松永久秀畠山秋高方の交野城攻め秋高援護のために摂津和田惟政出陣するなど、不穏な空気流れたからであったまた、久秀と順慶大和国をめぐる争いを、元亀元年より前から続けていた。 6月19日松永久秀三好三人衆組み河内畠山秋高居城高屋城攻め義昭から離反した同月義昭同盟した順慶奈良侵攻し義昭もまた順慶支援するため、奉公衆三淵藤英山岡景友援軍として送った。これに対し、久秀は松永久通三好義継とともに順慶辰市城攻め8月両軍激突した。久秀はこの戦いで大敗喫し多くの首が二条御所義昭のもとに送られ御所内でさらされた。 だが、久秀は三好三人衆連携して巻き返し図り8月28日摂津和田惟政攻め、これを討ち取った11月摂津晴門退任後に空席であった政所執事頭人)に若年伊勢貞興任じる人事信長同意し、貞興の成人まで信長職務代行することになった12月17日三好氏盟主仰いでいた細川六郎義昭軍門下り上洛して義昭謁見し、義昭から「昭」の一字与えられ、昭元と名乗った元亀3年1572年1月18日義昭面前において、上野秀政細川藤孝信長比叡山焼き討ちに関して激論交わした。この時点で、幕臣は親信長派と反信長派に分裂していた。 閏1月4日畠山秋高遊佐信教義昭裏切るとの風聞流れ義昭秋高信教に「三好松永は敵」との書状送り離反しないよう求めている。 4月13日細川昭元義昭裏切ると風聞流れた4月16日、久秀と義継が畠山秋高方の交野城攻め摂津でも伊丹親興和田惟長が義継に内通する動き見せた。久秀と義継はまた、細川昭元盟主とする動き見せた結果として、昭元や畠山高政畠山秋高遊佐信教、親興や惟長は義昭裏切らなかったが、畿内はいつ誰が義昭裏切かわからない不安定な情勢となった5月8日義昭山岡景友山城守護に補任したが、それはこのような畿内情勢対抗する備えであった義昭はまだこの時点においては信長裏切るつもりはなかったと考えられるが、三好方が連合図ったことにより、義昭畿内において孤立することになった9月信長義昭に対して自身意見書である異見十七ヶ条送付した。この意見書義昭様々な点を批判しており、とくにかつて殺害され過去将軍の名を出したこともあって、これによって義昭信長対立抜き差しならないものになった10月甲斐武田信玄進軍開始し三河遠江侵攻した通説では、義昭異見十七ヶ条反発し信玄内通し結果とされてきたが、近年ではこの侵攻徳川家康標的したものであり、義昭通じたものではないとする見方もある。 また、同月信長妙心寺寺領安堵朱印状発給したが、これは義昭意思基づいて安堵されたものであった。この時点では、義昭信長対立することなく協調して京都支配行っている。 とはいえ信長にとって、徳川家康盟友であり、信玄徳川領に侵攻したことは、信長に矛を向けるということ等しかったこれまで信長武田氏上杉氏和睦仲裁してきたこともあって、この侵攻激怒して武田氏絶交し家康援軍送った他方信玄朝倉氏浅井氏本願寺などの反信長勢力手を組んだ12月22日信玄三方ヶ原の戦い徳川家康軍勢を破ると、信長本国である尾張美濃防衛迫られることになり、窮地陥った信玄破竹進撃により、幕府内部では「信長に付くか、信玄に付くか」で議論交わされ幕臣多く信玄支持回り、それが義昭信長との離間繋がったとする見方もある。また、信長尾張美濃防衛精鋭割いて京が手薄になると、そこを反信長派に大挙して衝かれる可能性があったことも、義昭離反走らせた可能性がある。いずれにせよ三方ヶ原の戦い結果義昭決断つながったことは間違いない考えられる

※この「信長との決裂」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「信長との決裂」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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