信長が譲位に反対したとする説とは? わかりやすく解説

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信長が譲位に反対したとする説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:46 UTC 版)

正親町天皇」の記事における「信長が譲位に反対したとする説」の解説

上記の説とは違い正親町天皇譲位希望して信長がこれに反対していたという説もある。朝廷内部資料清涼殿仕え女官日誌)である『お湯殿の上の日記』によると、天正9年1581年信長京都大規模な馬揃え行った直後3月9日に、正親町天皇から退位意向信長伝えられた。同年3月24日譲位がいったん朝議決定されて、この事を「めでたいめでたい」とまで記されている。 それにもかかわらず、『兼見卿記』4月1日の条に、一転中止になった記されている。これは前述のように当時仙洞御所無く天皇信長どちらか譲位希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式仙洞御所用意できない限り譲位は困難であった後年正親町天皇譲位においては、それに先立って豊臣秀吉仙洞御所造営している)。だが、譲位に関する儀式退位後の上皇の御所造営などにかかる莫大な経費捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代在位した3代天皇全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用朝廷になかったからである)。 天正元年時点で、正親町天皇57歳(同9年には65歳)、誠仁親王22歳(同30歳)である。天正9年時点では、天皇病気記事頻出するうになる。つまり、譲位を行う好機さしかかっていた。それにもかかわらず信長譲位に関して積極的な行動を取らなかったのは、むしろ譲位消極的だったからではないかという。

※この「信長が譲位に反対したとする説」の解説は、「正親町天皇」の解説の一部です。
「信長が譲位に反対したとする説」を含む「正親町天皇」の記事については、「正親町天皇」の概要を参照ください。

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