信長との共闘とは? わかりやすく解説

信長との共闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「信長との共闘」の解説

永禄12年1月14日義昭信長より、殿中御掟という9箇条掟書承認させられた。だが、義昭殿中御掟全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係微妙なものとなっていった。 3月1日朝廷信長副将軍任じようとし、正親町天皇勅旨下された。だが、信長はこれに返答しなかった。 4月14日義昭新居である二条御所移動した。これを受けて21日信長義昭帰国暇乞いをした。義昭涙して感謝し門外まで送り出したばかりか粟田口にその姿が消えるまで見送ったという。 8月信長は自ら伊勢国北畠氏攻め本拠地である大河内城包囲・攻撃した(大河内城の戦い)。だが、北畠氏抵抗で城を落としきれず、信長要請受けた義昭仲介に立つ形で、10月講和成立した10月11日信長凱旋のために上洛したが、その後すぐ、17日美濃帰ってしまった。これは朝廷でも騒動になり、正親町天皇事態憂慮して女房奉書出している。 永禄13年元亀元年1570年1月信長殿中御掟に5箇条追加し義昭はこれを承認した。これら5箇条前年よりもさらに厳しいものであったため、義昭信長に強い不満を抱いた4月20日信長若狭武藤友益、及び越前朝倉義景討伐のため、守護奉公衆昵近公家衆からなる幕府軍3率いて京を出発し若狭へと向かった。ただし、朝倉氏討伐対象ではなく若狭武田氏抵抗する武藤氏のみが討伐対象だったとする見解もある。また、本国時の変の失敗教訓として、二条御所完成後に出陣している。 信長が京を出陣したのち、近江経て若狭に入ると、高浜辺見氏や西津内藤氏といった若狭の国衆が馳せ参じ家老国境まで迎えに来た。若狭では、国衆若狭武田氏朝倉氏それぞれ分かれており、義昭の甥でもある武田元昭朝倉義景拉致される事件発生するなど、支配安定していなかった。武田家中は義輝の代から内紛調停願い出ており、今回信長軍事行動武田氏家老国衆歩調合わせたものであった4月25日信長朝倉氏討伐のため、若狭から越前に赴き、敦賀郡入った武藤氏信長挟撃するため、朝倉義景後詰依頼したことが主たる要因であった。そのため、越前への侵攻武藤氏朝倉氏連携取り信長方が挟撃されることになったことによる結果論に過ぎないという指摘もある。 同日信長手筒山城攻撃したのち、朝倉景恒籠城する金ヶ崎城攻撃した金ヶ崎の戦い)。だが、近江浅井長政離反しさらには六角義賢蜂起したことで、挟撃を受ける可能性発生し信長撤退余儀なくされた。 4月29日信長越前から撤退し近江朽木越えて4月30日に京へと入った。このとき、幕府軍池田勝正が殿を務め若狭では沼田弥太郎近江では朽木元綱といった幕府奉公衆引導している。このように若狭越前攻めでは、義昭信長は一体となっていた。 信長京都離れている間、義昭申し入れによって、4月23日朝廷年号永禄から元亀改元した。朝廷義昭畿内平定認めたことによるものだと考えられている。 6月28日信長徳川家康とともに近江浅井郡流れ姉川において、浅井朝倉連合軍戦って勝利した姉川の戦い)。この戦いにおいて、同月18日義昭は自らの出馬表明したほか(戦い出馬はしなかった)、畿内幕臣江南勢力軍事動員をかけているなど、この戦い金ヶ崎での敗戦によって失墜した将軍権威回復の意味合いもあった。この戦いで義昭信長は一体となっていた。 7月21日三好三人衆細川昭元挙兵し義昭方の野田城福島城攻めた野田城・福島城の戦い)。義昭河内畠山秋高軍事動員をかけたほか、秋高を介して紀伊和泉さらには信長にも出陣要請している。これを受け、幕府軍義昭自らが出馬し信長筆頭に、秋高三好義継松永久秀遊佐信教ら3万人の軍で出陣した義昭また、摂津三守護茨木氏塩川氏、有馬氏和泉国衆の軍勢糾合し、中島天満陣取り9月2日細川藤孝居城中島城へと入った。このとき、義昭は自ら糾合した幕府軍3万人信長の軍3万人の、総勢6万人軍勢率いていた。 9月12日義昭信長三好三人衆らと野田城福島城対峙しているさなか、石山本願寺離反蜂起し法主顕如諸国門徒飛ばした三人衆籠城していた野田城福島城本願寺近く連絡取り合っていたと考えられる義昭顕如義絶したが、顕如もこれに対して加賀四郡の御料所幕臣知行押領した。 9月18日義昭本願寺との勅命講和図り朝廷から公家烏丸光康正親町実彦聖護院門跡道澄勅使として派遣されたが、勅使戦火のために下向できなかった。 一方本願寺呼応して浅井氏朝倉氏挙兵した。浅井朝倉連合軍六角義賢本願寺近江門徒衆も取り込み近江坂本まで出兵したのち、さらには京表青山将軍山に軍を進め京都伏見鳥羽山科放火した。これにより、義昭信長三好本願寺勢、浅井朝倉勢に完全に包囲されるとなった浅井朝倉勢の蜂起は、幕府軍摂津出陣し、京の守り手薄になっていたからといえる9月23日義昭信長浅井朝倉勢の蜂起受けて摂津幕府軍残したまま、ともに京都へと戻った義昭摂津出陣している間、二条御所では三淵藤英大舘晴忠ら奉公衆公家吉田兼和兼見)といったわずかな人々留守務めているだけだった翌日信長浅井朝倉勢の討伐のため、近江向かった。この時、信長の軍は1万であったが、浅井朝倉勢は3であった。彼らは京都東方山々布陣し信長は山に阻まれ攻めることができなかった。 10月1日本願寺三好三人衆援軍として摂津中島着陣し、義昭方の茨木城調略降伏させ、ともに京に攻め入ることを協議した。だが、信長三好方に調略をかけ、三好為三細川昭元香西元成を寝返らされるなど、切り崩そうとしている。信長本願寺は、それぞれに激し調略合戦展開した10月4日西岡宇治一揆発生すると、幕府徳政令出したほか、奉公衆織田方の木下秀吉菅谷長頼協力して鎮圧にあたっている。 10月20日浅井朝倉勢が京都郊外において、修学や一乗寺、松ヶ崎にまで侵出し、所々放火行ったが、奉公衆撃退した三好三人衆また、京へと侵攻し22日には京都近郊にあった信長方の御牧城を落とした11月比叡山延暦寺浅井・朝倉軍加勢し浅井・朝倉軍比叡山立てこもった。だが、信長10月末より、各勢力との講和交渉開始した11月11日信長六角氏講和したのち、13日には本願寺とも講和した。さらに、11月18日には三好三人衆講和応じ松永久秀篠原長房との間で人質交わされた。残る浅井氏朝倉氏延暦寺との交渉引き続き行われた11月28日義昭信長依頼され関白二条晴良とともに近江坂本下向した。反信長派の主力朝倉氏であり、義昭はかつて朝倉氏庇護受けていたため、信長仲介者として適任だ考えたからであった12月13日二条晴良浅井氏朝倉氏比叡山延暦寺との講和に関して義昭仲裁提案した義昭はこの提案受け入れ、晴良ともに園城寺下向した。また、義昭和議背負ない場合には、高野山隠遁する覚悟を以て臨んだ義昭は晴良を朝倉氏の陣に赴かせ、晴良を介する形で、義景に信長との講和打診したその結果朝倉氏講和に傾いたが、延暦寺がこれに反対したため、反信長派で議論起きた。だが、朝倉氏講和に傾いたため、浅井氏延暦寺もこれに追従し信長派と朝倉氏以下反信長派との間で講和成立したまた、延暦寺に対して朝廷から綸旨出され勅命講和の形がとられた。 12月14日それぞれ近江から撤兵して、志賀の陣集結し17日信長美濃へと戻った信長最大危機脱したが、それを持ちこたえることができたのは、義昭味方していたことが大きかった

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