信長との共闘
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永禄12年1月14日、義昭は信長より、殿中御掟という9箇条の掟書を承認させられた。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていった。 3月1日、朝廷は信長を副将軍に任じようとし、正親町天皇の勅旨が下された。だが、信長はこれに返答しなかった。 4月14日、義昭は新居である二条御所に移動した。これを受けて、21日に信長は義昭に帰国の暇乞いをした。義昭は涙して感謝し、門外まで送り出したばかりか、粟田口にその姿が消えるまで見送ったという。 8月、信長は自ら伊勢国の北畠氏を攻め、本拠地である大河内城を包囲・攻撃した(大河内城の戦い)。だが、北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で、10月に講和が成立した。 10月11日、信長が凱旋のために上洛したが、その後すぐ、17日に美濃に帰ってしまった。これは朝廷でも騒動になり、正親町天皇が事態を憂慮して女房奉書を出している。 永禄13年(元亀元年、1570年)1月、信長が殿中御掟に5箇条を追加し、義昭はこれを承認した。これら5箇条は前年よりもさらに厳しいものであったため、義昭は信長に強い不満を抱いた。 4月20日、信長は若狭の武藤友益、及び越前の朝倉義景の討伐のため、守護や奉公衆、昵近公家衆からなる幕府軍3万を率いて京を出発し、若狭へと向かった。ただし、朝倉氏は討伐対象ではなく、若狭武田氏に抵抗する武藤氏のみが討伐対象だったとする見解もある。また、本国時の変の失敗を教訓として、二条御所の完成後に出陣している。 信長が京を出陣したのち、近江を経て若狭に入ると、高浜の辺見氏や西津の内藤氏といった若狭の国衆が馳せ参じ、家老も国境まで迎えに来た。若狭では、国衆が若狭武田氏と朝倉氏でそれぞれ分かれており、義昭の甥でもある武田元昭が朝倉義景に拉致される事件が発生するなど、支配が安定していなかった。武田家中は義輝の代から内紛の調停を願い出ており、今回の信長の軍事行動は武田氏の家老や国衆と歩調を合わせたものであった。 4月25日、信長は朝倉氏討伐のため、若狭から越前に赴き、敦賀郡に入った。武藤氏が信長を挟撃するため、朝倉義景に後詰を依頼したことが主たる要因であった。そのため、越前への侵攻は武藤氏が朝倉氏と連携を取り、信長方が挟撃されることになったことによる結果論に過ぎないという指摘もある。 同日、信長は手筒山城を攻撃したのち、朝倉景恒の籠城する金ヶ崎城を攻撃した(金ヶ崎の戦い)。だが、近江の浅井長政が離反し、さらには六角義賢が蜂起したことで、挟撃を受ける可能性が発生し、信長は撤退を余儀なくされた。 4月29日、信長は越前から撤退し、近江朽木を越えて、4月30日に京へと入った。このとき、幕府軍の池田勝正が殿を務め、若狭では沼田弥太郎、近江では朽木元綱といった幕府奉公衆が引導している。このように、若狭・越前攻めでは、義昭と信長は一体となっていた。 信長が京都を離れている間、義昭の申し入れによって、4月23日に朝廷が年号を永禄から元亀に改元した。朝廷が義昭の畿内平定を認めたことによるものだと考えられている。 6月28日、信長は徳川家康とともに近江浅井郡を流れる姉川において、浅井・朝倉連合軍と戦って勝利した(姉川の戦い)。この戦いにおいて、同月18日に義昭は自らの出馬を表明したほか(戦いに出馬はしなかった)、畿内の幕臣や江南の勢力に軍事動員をかけているなど、この戦いは金ヶ崎での敗戦によって失墜した将軍権威の回復の意味合いもあった。この戦いでも義昭と信長は一体となっていた。 7月21日、三好三人衆と細川昭元が挙兵し、義昭方の野田城・福島城を攻めた(野田城・福島城の戦い)。義昭は河内の畠山秋高に軍事動員をかけたほか、秋高を介して、紀伊や和泉、さらには信長にも出陣を要請している。これを受け、幕府軍は義昭自らが出馬し、信長を筆頭に、秋高、三好義継、松永久秀、遊佐信教ら3万人の軍で出陣した。 義昭はまた、摂津三守護や茨木氏、塩川氏、有馬氏ら和泉国衆の軍勢を糾合し、中島・天満森に陣取り、9月2日に細川藤孝の居城・中島城へと入った。このとき、義昭は自ら糾合した幕府軍3万人、信長の軍3万人の、総勢6万人の軍勢を率いていた。 9月12日、義昭と信長が三好三人衆らと野田城・福島城で対峙しているさなか、石山本願寺が離反・蜂起し、法主・顕如が諸国の門徒に檄を飛ばした。三人衆が籠城していた野田城・福島城は本願寺に近く、連絡を取り合っていたと考えられる。義昭は顕如と義絶したが、顕如もこれに対して、加賀四郡の御料所と幕臣の知行を押領した。 9月18日、義昭は本願寺との勅命講和を図り、朝廷から公家の烏丸光康と正親町実彦、聖護院門跡の道澄が勅使として派遣されたが、勅使は戦火のために下向できなかった。 一方、本願寺に呼応して、浅井氏・朝倉氏が挙兵した。浅井・朝倉の連合軍は六角義賢や本願寺の近江門徒衆も取り込み、近江坂本まで出兵したのち、さらには京表の青山・将軍山に軍を進め、京都の伏見や鳥羽、山科に放火した。これにより、義昭と信長は三好・本願寺勢、浅井・朝倉勢に完全に包囲される形となった。浅井・朝倉勢の蜂起は、幕府軍が摂津に出陣し、京の守りが手薄になっていたからといえる。 9月23日、義昭と信長は浅井・朝倉勢の蜂起を受けて、摂津に幕府軍を残したまま、ともに京都へと戻った。義昭が摂津に出陣している間、二条御所では三淵藤英や大舘晴忠ら奉公衆、公家の吉田兼和(兼見)といったわずかな人々が留守を務めているだけだった。 翌日、信長は浅井・朝倉勢の討伐のため、近江に向かった。この時、信長の軍は1万であったが、浅井・朝倉勢は3万であった。彼らは京都東方の山々に布陣し、信長は山に阻まれて攻めることができなかった。 10月1日、本願寺が三好三人衆の援軍として摂津中島に着陣し、義昭方の茨木城を調略で降伏させ、ともに京に攻め入ることを協議した。だが、信長も三好方に調略をかけ、三好為三や細川昭元、香西元成を寝返らされるなど、切り崩そうとしている。信長と本願寺は、それぞれに激しい調略合戦を展開した。 10月4日、西岡や宇治で一揆が発生すると、幕府は徳政令を出したほか、奉公衆と織田方の木下秀吉や菅谷長頼が協力して鎮圧にあたっている。 10月20日、浅井・朝倉勢が京都郊外において、修学寺や一乗寺、松ヶ崎にまで侵出し、所々に放火を行ったが、奉公衆が撃退した。三好三人衆もまた、京へと侵攻し、22日には京都近郊にあった信長方の御牧城を落とした。 11月、比叡山延暦寺が浅井・朝倉軍に加勢し、浅井・朝倉軍は比叡山に立てこもった。だが、信長は10月末より、各勢力との講和交渉を開始した。 11月11日、信長は六角氏と講和したのち、13日には本願寺とも講和した。さらに、11月18日には三好三人衆も講和に応じ、松永久秀と篠原長房との間で人質が交わされた。残る浅井氏や朝倉氏、延暦寺との交渉も引き続き行われた。 11月28日、義昭は信長に依頼され、関白・二条晴良とともに近江坂本に下向した。反信長派の主力は朝倉氏であり、義昭はかつて朝倉氏の庇護を受けていたため、信長が仲介者として適任だと考えたからであった。 12月13日、二条晴良が浅井氏や朝倉氏、比叡山延暦寺との講和に関して、義昭に仲裁を提案した。義昭はこの提案を受け入れ、晴良ともに園城寺に下向した。また、義昭は和議が背負しない場合には、高野山に隠遁する覚悟を以て臨んだ。 義昭は晴良を朝倉氏の陣に赴かせ、晴良を介する形で、義景に信長との講和を打診した。その結果、朝倉氏は講和に傾いたが、延暦寺がこれに反対したため、反信長派で議論が起きた。だが、朝倉氏は講和に傾いたため、浅井氏と延暦寺もこれに追従し、信長派と朝倉氏以下反信長派との間で講和が成立した。また、延暦寺に対して朝廷から綸旨が出され、勅命講和の形がとられた。 12月14日、それぞれが近江から撤兵して、志賀の陣が集結し、17日に信長は美濃へと戻った。信長は最大の危機を脱したが、それを持ちこたえることができたのは、義昭が味方していたことが大きかった。
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