信長による19ヶ条の折檻状とは? わかりやすく解説

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信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 00:01 UTC 版)

佐久間信盛」の記事における「信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)」の解説

ウィキソース佐久間信盛折檻状の原文あります。 一、佐久間信盛・信栄親子天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない世間では不審思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。 一、信盛らの気持ち推し量るに、石山本願寺大敵考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守り堅めておれば、相手坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長威光によって出ていくであろう考え戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦解かれまことに本意なことであったのに、一方的な思慮持久戦固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。 一、丹波国での明智光秀働きめざましく天下面目ほどこした羽柴秀吉の数カ国における働き比類なし。池田恒興少禄の身であるが、花隈城時間掛けず攻略し天下に名誉を施したこれを以て信盛も奮起し一廉働きをすべきであろう。 一、柴田勝家もこれらの働き聞いて越前一国領有しながら手柄なくては評判悪かろう気遣いし、この春加賀侵攻し平定した。 一、戦いで期待通り働きできないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長報告し意見聞き来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。 一、信盛の与力保田知宗書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子連判している。今まで一度そうした報告もないのにこうした書状送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。 一、信盛は家中に於いては特別な待遇受けているではないか三河尾張近江大和河内・和泉に、根来衆加えれば紀伊にもと、小身の者ばかりとはいえ七ヶ国から与力あたえられている。これに自身配下加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。 一、水野信元死後の刈谷与えておいたので、家臣増えたかと思えばそうではなくそれどころ水野旧臣追放してしまった。それでも跡目新たに設けるなら前と同じ数の家臣確保できるはずだが、1人家臣召し抱えていなかったのなら、追放した水野旧臣知行を信盛の直轄とし、収益金銀換えているということである。言語道断である。 一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。 一、以前からの家臣知行加増してやったり与力付けたり新規に家臣召し抱えたりしていればこれほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むとばかり考えるから今回天下面目失ってしまったのだ。これは唐・高麗南蛮の国でも有名なことだ。 一、先年朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分正当性吹聴しあまつさえ席を蹴って立った。これによって信長面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。 一、甚九郎(信栄)の罪状書き並べればきりがない。 一、大まかに言えば第一に欲深く、気むずかしく良い人抱えようともしない。その上物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのようなになったのである。 一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃備える際、与力軍役勤めさせ、自身家臣召抱えず。領地無駄にし、卑怯な事をしている。 一、信盛の与力家臣たちまで信栄に遠慮している。自身思慮自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。 一、信長の代になって30年奉公してきた間、「信盛の活躍比類なし」と言われるような働き一度もない。 一、信長生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原援軍を使わした時で、勝ち負け習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟身内しかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死免れても、人々不審には思わなかっただろうに、一人死者をだしていないあまつさえもう一人援軍の将・平手汎秀見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。 一、こうなればどこかの敵をたいらげ会稽の恥すすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。 一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々赦しを乞うのが当然であろう。 右のように数年の間ひとかど武勲もなく、未練の子細はこのたび保田の件で思い当たったそもそも天下支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償い最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはなであろう

※この「信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)」の解説は、「佐久間信盛」の解説の一部です。
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