信長と光秀とは? わかりやすく解説

信長と光秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)

本能寺の変」の記事における「信長と光秀」の解説

地図を見る 天正10年1582年5月14日織田信長は(『兼見卿記』によれば安土城下向した長岡藤孝命じ明智光秀を在荘として軍務を解くから翌日安土訪れ予定徳川家康饗応役務めるようにと指示した。そこで光秀は京・堺から珍物を沢山取り揃えて15日より3日間、武田氏との戦い長年労のあった徳川家康や、金2,000献じ所領安堵された穴山梅雪らの一行もてなした。 ところが、17日備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から毛利輝元小早川隆景吉川元春後詰現れたので応援要請するという旨の手紙が届いたため、信長は「今、安芸勢と間近く接したことは天が与えた好機である。自ら出陣して、中国歴々討ち果たし九州まで一気平定してしまおう」と決心して堀秀政使者として備中派遣し光秀とその与力衆(長岡藤孝池田恒興高山右近中川清秀塩川長満)には援軍先陣務めるように命じた。ただし『川角太閤記』では、単なる秀吉への援軍ではなく光秀出陣目的毛利領国である伯耆出雲乱入して後方撹乱することにあったとしている。ともかく、光秀急遽17日中に居城坂本城戻り出陣準備始めた。 「#饗応役の解任」および「#旧領丹波・近江の召上」も参照 19日信長摠見寺幸若太夫に舞をまわせ、家康近衛前久楠長譜、長松井友閑披露させた。信長大変に上機嫌で、舞が早く終わったので翌日出し物だった能を今日やるようにと丹波田楽梅若太夫命じたが、見る見るうちに機嫌悪くなり、不出来見苦しいといって梅若太夫厳しく叱責した。その後幸若太夫に舞を再びまわせ、ようやく信長機嫌直した云う20日家康饗応役新たに丹羽長秀堀秀政長谷川秀一菅屋長頼の4名に命じた信長家康京・大坂・奈良・堺をゆるりと見物するように勧めたので、21日家康は京に出立し長谷川秀一案内役として同行した。長秀と津田信澄大坂先に行って家康をもてなす準備をするよう命じられた。 同日信長嫡男信忠上洛して、一門衆母衣衆などを引き連れて妙覚寺入った信忠がこの時期上洛した理由はよくわかっていないが、家康大坂・堺へ向かうのに同行するためとも、弟神戸信孝四国征伐軍の陣中見舞いをする予定信長一緒に淡路に行くつもりだったとも言う。いずれにしても信忠はこの日から変の日まで妙覚寺長逗留した。 26日坂本城発した光秀は、別の居城である丹波亀山城移った27日光秀亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現参拝しその日は参籠宿泊)した。(『信長公記』によると)光秀思うところあって太郎坊の前で二度三度おみくじ引いたそうである。28日異説では24日)、光秀威徳院西坊で連歌の会(愛宕百韻)を催し28日中に亀山帰城した。(『川角太閤記』によると)山崎長門守亀之助が伝えたところによれば、光秀は翌29日弓鉄砲の矢玉入った長持などの百個の荷物を運ぶ輜重隊西国先発させていたと云う。 「#愛宕百韻」も参照 29日信長安土城留守居衆と御番衆託すと、「戦陣用意をして待機命令あり次第出陣せよ」と命じて供廻り連れず小姓衆のみを率いて上洛し、同日、京での定宿であった本能寺入った信長の上洛の理由もよくわかっていないが、勧修寺晴豊の『日々記』や信孝朱印状によると、実現はしなかったものの6月4日に堺から淡路訪れ予定であったと云い、このことから毛利攻め中国出陣早くとも5日以降であった推測され安土より38点の名器をわざわざ京に運ばせていたことから道具開き茶会開いて披露するのが直接的な目的だったと考えられる博多豪商島井宗室所持する楢柴肩衝目当てで、信長は何とかこれを譲らせようと思っていたとも言われるが、別の説によればそれはついでで、作暦大権尾張採用問題)など朝廷交渉するための上洛だったとも云う6月1日信長は、前久、晴豊、甘露寺経元などの公卿僧侶40名を招き本能寺茶会開いた名物びらきの茶事が終わると酒宴となり、妙覚寺より信忠来訪し信長信忠親子久しぶりに酒を飲み交わした深夜になって信忠帰った後も、信長本因坊算砂鹿塩利賢の囲碁対局見て、しばらく後に就寝した

※この「信長と光秀」の解説は、「本能寺の変」の解説の一部です。
「信長と光秀」を含む「本能寺の変」の記事については、「本能寺の変」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「信長と光秀」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「信長と光秀」の関連用語

信長と光秀のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



信長と光秀のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの本能寺の変 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS