中国攻め
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中国攻め(ちゅうごくぜめ)は、天正5年(1577年)以降に織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じて行った毛利輝元の勢力圏である山陽道・山陰道に対する進攻戦。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する[注釈 3]。戦は足かけ6年にも及び、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日(西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長が横死したためそのまま未完に終わった。
注釈
- ^ 実際は高松城の水攻めを描いた絵だが、江戸時代は元亀・天正年間以降の事件を直接描くのは禁止されていたため、「赤松城」と名前をわざと変えている。
- ^ 天正6年の毛利氏出陣の時のみ、信忠が総大将となった。
- ^ 軍記物などでは「中国征伐」とも称する。「中国征伐」とは - コトバンク
- ^ 永禄12年(1569年)8月、信長は尼子氏を支援している但馬山名氏の背後を牽制するよう要請した毛利氏からの申し出を受けて木下秀吉や坂井政尚らに兵2万をつけて但馬に出兵している。但馬の生野銀山の支配が目的であったという[1][2]。
- ^ a b 天正元年11月に毛利側の外交僧として安国寺恵瓊が上洛し、義昭の帰洛条件について羽柴秀吉、朝山日乗とともに義昭と会見した。この時、義昭が信長の人質を要求したのを秀吉が拒否したため交渉は決裂、恵瓊は義昭が西国に来ないよう要望したため、義昭はやむなく紀伊に立ち退いた[6]。
- ^ ただし、山名氏の研究者の間では天正2年当時の芸但同盟(毛利氏と山名氏の同盟)は尼子勝久やこれに呼応する三村氏・浦上氏に対抗する目的のものであり、天正4年の織田・毛利両氏の関係が破綻する以前の山名氏において「親織田」と「親毛利」の方針は矛盾なく両立していた(芸但同盟締結後の祐豊は一貫して毛利方・信長方両方との連携を保っていた)とする指摘がある[10]。
- ^ 当初、輝元は義昭を庇護することに難色を示したが豊後の大友氏など西方の脅威が去り、播磨・丹波などにおける反毛利勢力が信長にしたがう趨勢をみて東方の脅威が増大したことに危機感を抱いて態度を変えた[11]。
- ^ 義昭を直接庇護した小早川隆景の天正7年3月の書状によれば、義昭が鞆にあることによって遠国からも毛利あてに便りがとどくようになったとして、これを喜んでいる[13]。また、吉川元春は義昭が鞆に来た天正4年の段階で花押を変えている[14]。
- ^ 義昭は鞆に移ってからも天正16年(1588年)まで公式には征夷大将軍の職にあり、彼自身及びその御所は「鞆公方」とよばれた。また、京都五山・鎌倉五山など有力禅寺の住持の任命権を保持していた[15]。
- ^ それまで越前・加賀の門徒たちは甲斐の武田氏と結んで謙信と敵対していたが勝頼の父・武田信玄が死去し、長篠の戦いで武田氏が敗北を喫し、信長が越前を制圧したことによってさらに危機感をつのらせ、急速に上杉との講和に傾いた[18]。
- ^ 輝元と直家の和議の成立により、毛利と結んで直家に対抗していた備中の三村元親、直家と結んで毛利に対していた美作の三浦氏がそれぞれ離反したため、両氏はともに毛利・宇喜多の軍勢に滅ぼされた[22]。
- ^ 備中の三村氏と毛利・宇喜多氏の戦いについては「備中兵乱」参照。
- ^ 藤田達生は、義昭が歴代将軍同様、「日本国王」として明・朝鮮王国・琉球王国など東アジア外交に大きく関わっていた可能性があり、赤間関(山口県下関市)を窓口としていた毛利氏はこれにより有利な条件を獲得しえたのではないかと指摘している[24]。
- ^ a b 熱田公は、それ以前から秀吉の播磨調略がおこなわれているので、秀吉の北陸戦線離脱は、信長の内諾もえた予定の行動で、勝家と対立した件も敵味方の目をくらます芝居であった可能性を指摘している[28]。
- ^ 熱田公は上月城を包囲する毛利勢を兵3万としている[36]。
- ^ 上杉氏の家中ではその後、謙信の後継争いがつづいた(御館の乱)。
- ^ 村重はのちに秀吉に近侍して堺に居住し茶人として名をなした。
- ^ 「彼らの悲しみの声は煙につれて空に響き、その残虐さは獄卒の呵責に等しい」と伝えている[50]。
- ^ 秀吉は、2月末の京都御馬揃えには参加しなかった。
- ^ a b この年(天正9年)の9月17日には、信長方の摂津山下城(兵庫県川西市)の城主塩川国満が丸山城の城主能勢頼道の謀殺に成功している。同じ「丸山城」の名であるが、こちらは摂津能勢郡(現在の大阪府能勢郡能勢町)に所在する平山城である。
- ^ 秀吉が斎藤玄蕃允・岡本太郎左衛門の両名にあてた手紙のなかにある文章。信長が筑前(秀吉)を評して語ったことばという。
出典
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- ^ a b c 安井(1996)pp.18-19
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