塩冶高清
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塩冶 高清(えんや たかきよ 生年不詳-天正9年10月24日(1581年11月20日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。但馬塩冶氏の当主。官職は周防守。塩冶綱高の子[1]。
- ^ 1968年(昭和43年)刊行の『岩美町誌』によると、「実子」ではなく「養子」との説を採り、「因幡国巨濃郡姥ヶ谷城主の吉見範仲が但馬国美方郡に逃れ、芦屋城主となり"塩冶周防守"と名乗った」とする説が紹介されているが、これを証明する一次史料は存在していない。『浜坂町史』にもこの説の影響を受け「因幡国の吉見兵部が、塩冶左衛門尉綱高の養子となり"塩冶周防守高清"と名乗った」と記載されている。
- ^ 『群書類従(系図部)』に所収の『佐々木系図』によれば塩冶高貞の甥・塩冶通清の四男・塩冶周防守の子・某が但州塩冶の祖にあたる。
- ^ 当時の高信は豊国によって鵯尾城から追われていた。
- ^ 『岩国藩分限帖』、『御家中系図』
- ^ 周防守
- ^ 周防守
- ^ 若狭守、左衛門尉
- ^ 一説、左京亮とも。
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