鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年
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「中国攻め」の記事における「鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年」の解説
詳細は「鳥取城」を参照 天正9年(1581年)、秀吉は、3月に上洛して清水寺(京都市東山区)で京都所司代の村井貞勝や堺奉行の松井友閑らと能楽を楽しむ酒宴を催し、その後中国戦線にもどって因幡に転戦し、6月より因幡守護山名豊国の居城であった久松山の鳥取城(鳥取市)を攻略した。鳥取城は前年、東からは秀長と宮部継潤の軍、南からは秀吉の軍が攻め入って包囲され、豊国は因幡一国の安堵を条件に開城をせまられたが、降伏に激しく反対する森下道誉や中村春続らの家臣団と対立し、単独で秀吉に投降した。家臣団は豊国を見限り、毛利家に対して、山陰地方での声望高く城兵をまとめる求心力をもつ存在として吉川氏の派遣を希望した。当主・吉川元春は石見福光城(島根県大田市)の城主で一族の吉川経家の派遣を決定した。 天正9年7月には、宮部継潤が塩冶高清の守る雁金城(鳥取市)を攻撃し、高清は丸山城(鳥取市)に逃亡した(雁金城の戦い)。包囲された鳥取城は、山陰地方における毛利方の難攻不落の要塞であったため、秀吉は後世、「鳥取の渇殺し」と呼ばれる兵糧攻めを採用した。先述した穀物買い占めにともなう価格上昇により、鳥取城中の貯穀さえ売り出す者がいたといわれている。 秀吉は鳥取城の周囲に深さ8メートルの空堀を全長12キロメートルにわたって築き、塀や柵を幾重にも設けて櫓を建て、夜間も入念に監視させたうえで河川での通交も遮断した。そのうえで、昼夜の別なく鐘や太鼓、鬨(とき)の声をあげさせ、不意に鉄砲や火矢を放つなどして城内の不安を煽り、また、多数の商人を集めて城外で市を開かせて衣食にかかわるものを売買させ、芸人を呼び集めて盛大に歌舞音曲をおこなうなどして城内の厭戦気分の醸成に努めた。 9月16日、鳥取への兵糧補給における水上交通の要地、因幡千代川(湊川)河口の海戦において、細川藤孝の家臣でもある松井康之が毛利水軍を破り、敵将鹿足元忠の首を斬った(湊川口の戦い)。これにより鳥取城は完全に食糧を絶たれ、水、草木、城内の犬・猫・鼠まで食い尽くし、死者の肉まで奪い合う修羅場となった。10月24日、毛利氏は秀吉方に丸山城を開城、翌25日は鳥取城も開城した。開城交渉では、自らの生命に代えて城兵の助命を主張する経家と、経家を生かして森下・中村の切腹で充分と考える秀吉との意見がかみあわず、結局、経家と城内の有力な将士がそろって自害した(鳥取城の戦い)。切腹に際し経家は「日本二ツの御弓箭の境(日本をふたつに分けるような重大な合戦の節目)において切腹に及び候事、末代の名誉たるべしと存じ候」と記した遺言状を故郷の石見に書き送っている。 秀吉はその後すぐさま伯耆に出兵し、羽衣石城の南条元続を救援しようとしたが、吉川元春が馬ノ山(鳥取県湯梨浜町)に布陣し、全面対決も辞さない構えを示したため秀吉はいたずらに激戦して多数の将兵を損耗する事態を避け、羽衣石へ兵糧・弾薬などの補給をおこなったうえで、10月28日に全軍に早期撤兵を命じた(馬ノ山の戦い)。 この年、秀吉は毛利氏の前線基地としての機能を担っていた淡路の平定にも乗り出している。11月中旬、秀吉は自ら池田元助と共に淡路に渡って、安宅清康を由良城の戦い(兵庫県洲本市)で破り、つづいて11月15日の岩屋城の戦い(兵庫県淡路市)に勝利して、最終的に淡路の制圧に成功し、播磨灘の制海権をにぎった。岩屋城を生駒親正にあたえ、淡路国全体の支配は仙石秀久に委ねた。なお、安宅清康の服属により、安宅氏の勢力圏内であった小豆島も信長政権に帰属することとなった。 この年はまた、但馬で国人一揆がおこっているが秀吉は配下の藤堂高虎を派遣して但馬一揆を平定している。領国経営の面では、秀吉は播磨国内に城割命令を発してかつての守護家の居城であった置塩城を廃城とした。破却された置塩城の建物や部材、石垣は自身の本拠地である姫路城に運び込まれた。 なお、前年からこの年にかけて、毛利氏と宇喜多氏の戦いが備前・備中・美作の各地で繰り広げられていた。そのうち最大の戦いとなったのは8月の八浜合戦(岡山県玉野市)である。この年(天正9年)2月に直家が病没し、1年間死が伏せられた中での戦闘であったが毛利主力は備前児島に兵を進め、麦医山(玉野市大崎)に拠る穂井田元清(輝元の叔父)に援軍を送って激しい戦いとなったが、村上水軍を動員した毛利氏によって宇喜多勢は総崩れとなって退却した。
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