鳥取城籠城戦とは? わかりやすく解説

鳥取城籠城戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 13:39 UTC 版)

吉川経家」の記事における「鳥取城籠城戦」の解説

同年2月、経家は鳥取城入城する。鳥取城守備兵山名氏配下が1,000名、毛利氏配下800人、近隣籠城志願農民兵が2,000人の、おおよそ4,000であった。経家はすぐさま防衛線の構築取り掛かり籠城準備進めたが、兵糧蓄えおおよそ平時城兵3か月分しかなかった。これは因幡国内の米は秀吉密命によって潜入した若狭国商人によって全て高値で買い漁られ、その高値釣られた鳥取城城兵備蓄していた兵糧米売り払ったためであったこのまま行けば兵糧ひと月持つかどうか怪しい状態であった6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率い2万軍勢因幡侵攻し7月鳥取城包囲攻撃開始した秀吉無闇に手を出さず黒田孝高献策により包囲網維持し続けた鳥取城包囲網により糧道断たれ陸路および海路使った兵糧搬入作戦失敗兵糧尽き、2ヶ月目には城内家畜植物食べ尽くし、3ヶ月目には守城兵餓死者が続出し始める。城内は「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を食した」という地獄絵図となった。それでも4ヶ月籠城に耐えたが、10月、経家は森下道誉中村春続相談し、ここに至って城兵助命条件とし、降伏することとなった秀吉は経家の奮戦称え責任取って自害するのは森下道誉中村春続だけでよく、経家は帰還させるとの意思伝えた。しかし経家はそれを拒否し責任取って自害するとの意志変えなかった。困惑した秀吉信長確認をとり、信長は経家の自害許可した10月25日早朝、経家は家臣暇乞いの盃を交わし具足櫃腰を掛けて脇差に紙を中巻きにすると、それを見守る家臣座中に目をやって、大声で「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切りようになろう」と言ってから切腹した。介錯静間某という者が務めた自害先立って父や子供らに遺書残し自分心情記している(その遺言状は5通中3通が現存している)。また、自害の際には小姓山県長茂付き従っており、その自害模様詳細記述して後世伝えている。 辞世は「武士もののふ)の 取り伝えた梓弓 かえるやもとの (すみか)なるらん 」。 自害後、その首は秀吉の下に届けられた。秀吉は首を見るなり「哀れな義士かな」と言って男泣きしたと伝わる。その後安土織田信長のもとに送られ信長によって丁重に葬られた。 墓所城内青木局と呼ばれる場所に建てられたが、慶長6年1601年)に池田長吉入城して城を改修した際に、城外円護寺五反田移された。平成5年1993年)、鳥取城正面入口に経家の銅像建立された。

※この「鳥取城籠城戦」の解説は、「吉川経家」の解説の一部です。
「鳥取城籠城戦」を含む「吉川経家」の記事については、「吉川経家」の概要を参照ください。

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