鳥取城に対する包囲網
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 14:05 UTC 版)
本項で述べる太閤ヶ平を中心とした包囲網。 毛利方に属していた、賀露港・二上山城・雨滝七曲城・市場城・生山城・船岡城・景石城・若桜鬼ヶ城・弓河内城・鹿野城を攻略したことによる、因幡国一円に及ぶ包囲網。 毛利方に属していた東伯耆の南条元続、南美作を支配していた宇喜多直家を調略したことによる、中国地方の東半分に及ぶ包囲網。 攻城戦は4か月に及んだ。織田方の巧みな経済封鎖によって食糧の不足していた鳥取城内では、籠城2か月目にして早くも食糧は尽き、牛馬や壁土、果ては餓死者の人肉まで奪い合うという飢餓地獄を現出した。城将・吉川経家は惨状を見るに忍びず、自らの命に替えて城兵を救うという条件で10月25日に城下の真教寺で自刃、鳥取城は開城し包囲陣は解かれた。 鳥取城を落とした秀吉は、城将として宮部継潤を入れ、次いで伯耆国に進み、馬の山まで進攻していた吉川元春と対陣している。しかし冬を迎えるとともに、毛利方の装備が十分なことを知った秀吉は急遽撤兵、11月8日に姫路に帰城している。その後、秀吉が因伯の地を訪れることはなかった。秀吉が築いた陣城群は、江戸中期頃まで軍事施設として認識されており、藩政期の鳥取城絵図にもその旨の記載が残っている。 秀吉の本陣が置かれた帝釈山は「本陣山」と呼ばれるようになり、現在はハイキングコースが設けられている。また本陣跡裏手の広場には、マイクロウェーブの中継所がある。
※この「鳥取城に対する包囲網」の解説は、「太閤ヶ平」の解説の一部です。
「鳥取城に対する包囲網」を含む「太閤ヶ平」の記事については、「太閤ヶ平」の概要を参照ください。
- 鳥取城に対する包囲網のページへのリンク