鳥取二中の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 07:22 UTC 版)
1921年頃、鳥取県岩田衛知事の意を受けた鳥取中学林重浩校長の新設中学校設立寄付の依頼を受ける。その背景には、大正デモクラシーの中で鳥取中学(後の鳥取一中)に定員の三倍を超える志願者が殺到するという進学熱の高まりがある一方で、建設誘致を巡る地域の対立、また、そもそもの県の財政事情を巡り、政友・民政党内部でも賛否両論、県議会も休会が続き混乱するという事情があった。徳田は、熟考の末,七年生高等学校(現在の中学、高校、大学の一貫教育に相当)への展望を条件に、15万円に上る新設中学校全額寄付を決断した。新中学校は1922年に鳥取県立鳥取第二中学校として設立され、初代校長には林重浩が任命された。徳田は、その後、五年間かけて寄付を完済した。しかし、校名に徳か平の文字をと勧める県の申し出を辞し、また、自由な教育の展開を尊重するとして二中への出入りも控えた。なお、七年生高等学校への発展は、その後の鳥取県の財政事情により実現しなかった。
※この「鳥取二中の創設」の解説は、「徳田平市」の解説の一部です。
「鳥取二中の創設」を含む「徳田平市」の記事については、「徳田平市」の概要を参照ください。
- 鳥取二中の創設のページへのリンク