鳥取・乾氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 10:50 UTC 版)
乾氏は本姓は宇多源氏で、佐々木経方の六男行範の支流という。古くは室町幕府に仕え、京都に住した。永正8年(1511年)に足利義澄が死去するとこれに仕えていた乾太郎兵衛は京都を去り、摂津国島下郡に住した。 孫の乾平右衛門長次の代に池田恒興に仕え、100石を与えられた。以後、池田氏の勢力拡大と共に成長していった乾氏は慶長15年(1610年)に池田忠雄が淡路国6万3,000石の大名に取り立てられた際、家禄を1,400石に加増され、家老職に任じられた。備前岡山転封後も引き続いて家老の座にあり、長次の子・乾直幾は鳥取転封により、家禄を加増され3500石を与えられた。 鳥取藩での乾氏は着座家に列し、その後も代々、家老職を勤めた。また、因幡国船岡に陣屋を置き、自分手政治に準ずる土地支配を行うことを認められた。代々の乾氏の中でも6代・乾長孝は学問・武芸に秀でており、家老職にあって、藩政改革を行った功績で知られている。享保3年(1718年)、池田吉泰より1,000石が与えられ家禄4,500石に加増された。寛政10年(1798年)、乾長孝の隠居料500石が与えられ家禄5,000石に加増された。幕末期においても10代・乾徳脩が藩の軍制改革に関わるなどしている。明治2年(1869年)、版籍奉還により船岡の陣屋並びに所領を返還した後は鳥取を離れ、東京に移住した。 菩提寺は船岡の乾徳山西来寺(現在は廃寺)、墓所は船岡の西来寺跡と鳥取の興禅寺の2ヵ所ある。
※この「鳥取・乾氏」の解説は、「乾氏」の解説の一部です。
「鳥取・乾氏」を含む「乾氏」の記事については、「乾氏」の概要を参照ください。
- 鳥取・乾氏のページへのリンク