二上山城とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 建物・施設 > 施設 > > 鳥取県の城 > 二上山城の意味・解説 

二上山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 08:43 UTC 版)

logo
二上山城
鳥取県
北東麓の岩常地区より望む
別名 岩経の城[1]
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 山名時氏
築城年 文和年間(1352年-1355年)
主な城主 山名氏、三上豊範
廃城年 慶長20年(1615年)頃?
遺構 曲輪、石垣、竪堀、切岸
指定文化財 鳥取県指定史跡
位置 北緯35度32分25.3秒 東経134度19分8.2秒 / 北緯35.540361度 東経134.318944度 / 35.540361; 134.318944座標: 北緯35度32分25.3秒 東経134度19分8.2秒 / 北緯35.540361度 東経134.318944度 / 35.540361; 134.318944
地図
二上山城
テンプレートを表示

二上山城(ふたがみやまじょう)は、鳥取県岩美郡岩美町岩常にあった日本の城南北朝時代から室町時代中期にかけての因幡国守護所だった。鳥取県指定史跡[1]

歴史

南北朝時代に因幡守護となった山名時氏によって、文和年間(1352年-1355年)に二上山山頂に築城されたと伝えられる[2]。二上山城が因幡守護所とされた理由については、次の4点が考えられる。

1.荒金・法正寺・銀山・岩常から産出する資源の掌握と管轄。
2.山陰道のおさえ。
3.山麓の小田川を通じての水運の利用
4.天険を利用しての軍事拠点

因幡民談記』によれば、5代守護の山名勝豊文正元年(1466年)に国の中央、布勢の天神山に守護所が移されたと伝えられる。ただし、新たな因幡守護所である布勢天神山城が山名勝豊によって築かれたとする説は、現在ではほぼ否定されている。15世紀後半から16世紀前半にかけて、守護所の機能が二上山城から布勢天神山城へと移行したのは確実であるが、その年代については今後の研究を待ちたい。

守護所が布勢天神山城へと移ったのち、二上山城と岩常の集落は荒廃した。特に因幡山名氏が滅びてからの治安の悪化を憂いた村民は但馬山名氏(山名の総領家)に窮状を訴え、但馬山名氏一族の三上兵庫頭豊範を城主として迎えた。三上兵庫頭は二上山城の不便さをいとい、新たに道竹城を築いて移った。二上山城には番兵を置いたという。さらに降った天正年間になると、因幡経営の拠点は鳥取城に置かれることとなった。

天正9年(1581年羽柴秀吉による鳥取城攻略によって毛利氏勢力は因幡を去り、旧巨濃郡垣屋光成が領することとなった。垣屋氏は浦富の桐山城を居城としたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い垣屋恒総が西軍に与して滅ぶ。二上山城もこの頃に廃城になったと考えられる。近年の発掘調査では近世初頭のすり鉢片なども城跡から出土しており、元和一国一城令まで城が存続していたと考えることもできる。

平成10年(1998年)4月21日に県指定史跡となった[1]

構造

二上山城の構造

  • 巨濃郡のほぼ中央、標高346メートルの二上山の峻険な地形を利用して築かれた、典型的な山城である。
  • 南西から北東の稜線にかけて一直線状に曲輪を連ねている。
  • 主要な郭はすべて山上に集中しているが、急峻な痩せ尾根による地形的な制約を受けている。まず山上に一の平があり、一の平北東下にはごく小規模で粗末な造りながら石垣(長さ4.5メートル、高さ2メートル)が存在する。これは山陰地方最古の石垣である。一の平の周囲には防衛の機能を備えていたと見られる帯曲輪がある。一の平から北東方向に下って、細長い二の平がある。二の平も北と南に帯曲輪を備えている。さらに下って8つの小削平地が連続する三の曲輪群がある。
  • 三の郭より下の尾根は、連続する堀切切岸で遮断している。
  • 山上から東西南北に伸びる4つの支峰には、小規模な砦群が連なっている。
  • 岩常集落には横井屋敷・山崎屋敷・南屋敷などの小字が残り、侍屋敷が形成されていたと考えられる。一方、守護館の所在地については不明である。

周辺の砦群

  • 岩常集落の北に常智院砦、南には城山砦がある。旧福部村栗谷から蔵見にかけては栗谷城・坂谷城・大旗山城が山続きにつながる。この砦群が防衛線を形成し、有事の際に備えていたと考えられる。
  • さらに旧福部村から岩美町にかけて散在する村落領主の城砦も防衛線の機能を果たしていたと見られる。

脚注

  1. ^ a b c 「二上山城跡」鳥取県公式HP
  2. ^ 「二上山城跡へのみち」鳥取県公式HP

関連項目


二上山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/18 08:26 UTC 版)

二上山 (鳥取県)」の記事における「二上山城」の解説

詳細は二上山城を参照山名氏はもともと上野国出自だが、山名時氏時代足利尊氏に従って南朝方で山陰地方本拠とする名和氏塩冶氏討ち山陰地方守護職授けられた。時氏は文和年間(1352-1355年)に二上山城を築き本拠地とした。以来山名一族100年余りにわたりここを居城として山陰地方支配した年代はよくわかっていないが、15世紀から16世紀頃いずれか時期に、本拠地因幡西部布勢天神山城移り、二上山城は廃れたとみられている。二上山城を根城にした最後棟梁山名氏家ともみられるが、史料毎の記述差異大きく、はっきりはわかっていない。 一説では、天文年間(1532-1555年)に山名祐豊の弟である三上豊範が城を再興し、のちに山頂立地不便だとして道竹城新たに築城して移った以後、二上山城は廃城となったとされている。 戦国期状況については異説がある。因幡民談記などによれば天正年間豊臣秀吉による因幡侵攻の際にも「岩経の城」として健在で、秀吉による書状中にその名が出てくる。「岩経の城」は1580(天正8)年に攻略され、岩井郡巨濃郡2万石とあわせて垣屋光成与えられた。光成は「岩経の城」が不便なため、本拠桐山城に遷した。しかし関ヶ原の戦い西軍についた垣屋氏改易になり、このときに廃城になった伝えられる山頂の「一の平」付近では石垣空堀本丸跡などが遺るほか、「ニの平」、「三の曲輪」、「壇」、南北出城などの遺構認められており、鳥取県史跡「二上山城跡」に指定されている。学術調査では「二の平」周辺から中国・朝鮮系の青磁器や陶器破片などが100点あまりみつかっていて、これらの特徴から戦国末期まで城として機能していたことが裏付けられている。

※この「二上山城」の解説は、「二上山 (鳥取県)」の解説の一部です。
「二上山城」を含む「二上山 (鳥取県)」の記事については、「二上山 (鳥取県)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「二上山城」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「二上山城」の関連用語

二上山城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



二上山城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの二上山城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの二上山 (鳥取県) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS