木沢長政の時代
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その後本格的な城郭を築いたのが木沢長政である。中川貴皓によれば、『細川両家記』天文五年(1536年)三月二十六日条において「信貴城」の使用が確認できるため、この頃には一定の規模の城が築かれていた。『証如上人日記』の天文5年6月26日によると、 「木沢方へ、今度信貴山之上二城をこしらへ候て、はや移候間、従所々樽共行候条、遣候可然よし」 という記載が見受けられる。信貴山城の完成を祝して本願寺より酒を贈ったと思われる。 16世紀前半には、従来の城郭とは異なる多様な機能を有する、いわゆる「戦国期拠点城郭」が各地に登場している。そして、大和国においては木沢長政の信貴山城が「戦国期拠点城郭」の嚆矢となった。 しかし、長政が天文11年(1542年)3月太平寺の戦いで敗死すると信貴山城は二上山城と共に落城してしまう。
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