木歩と声風の出会い
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1917年(大正6年)当時20歳の新井声風は慶應義塾大学の理財科(後の経済学部)の学生であり、父は浅草で映画常設館を営む事業家、市会議員でもあった。声風は、「やまと新聞」の俳句欄を通じて知った「石楠(しゃくなげ)」の臼田亞浪を師としていた。さらに個人誌「茜」を創刊したばかりであった。声風は、悲惨な境遇にありながら、清新な句を詠む同門の吟波に前々から興味を抱いていた。 その年の初夏、本所仲之郷に住む、「小梅吟社」の吟波を訪ねた。狭い棲居の机上には「正岡子規遺稿」「水巴句集」「荷風傑作抄」「鈴木三重吉選集」が積み重ねてあった。ここで木歩は同じ年の新井声風を知り、二人は生涯の友となる。何不自由なく育った声風と何もかも不自由な木歩、この二人は尊敬し合って俳句のよき仲間、生涯の親友となっていく。身体障害と貧困のために、小学校にも通えなかった木歩が、ここに大学生の友人を得て、新しい芸術的感覚・雰囲気に触れることができた。 声風は頻繁に吟波の長屋にやって来た。その度に「ホトトギス」「海紅(かいこう)」などの新刊の俳句雑誌や「中央公論」「新潮」「新小説」「改造」などの総合雑誌も持って来て、吟波の読書用に呈した。俳句だけでなくもっと広い知識も身につけさせようとの配慮だった。声風は三男で兄二人はすでに独立し、慶應義塾卒業後は父親の経営する浅草電気館を引き継ぐことに決まっていたが、父は健在ですぐにということでもなかった。そのため、学生生活はのんびりしたもので、慌てて卒業するつもりはなく、必要最小限の勉学の他は、好きな俳句と旅に殆どの時間を費やしていた。 ある日、吟波は、声風に「俳号を変えようかと思う」と相談を持ちかけた。それは吟波と号する俳人がもう一人いたのであった。河東碧梧桐系の「射手」に属する荒川吟波という俳人で、かなり名前が売れていた人であった。声風は直ちに賛成しなかったが、木歩の真意を解し後賛成した。 その年の真夏の昼、波王は木歩の弟、聾唖者の利助を誘って隅田川に泳ぎにいった。そして、川の魔の淵といわれる小松島で溺死した。利助は慌てふためき、炎天下約一里もある仲之郷の長屋まで走り続け、木歩や妹まき子にその悲報を伝えた。波王の恋人であった妹まき子は、まさに半狂乱であった。波王の変り果てた死体は下流で三日後に見つかった。波王は享年18であった。乙字、亞浪、種茅、声風等々、俳句史に長くその名をとどめるような師や先輩からの追悼句が、まさに寒々として何もない仏前を飾った。夏の末、末妹静子は長姉久子の養女として「新松葉」に行った。そして木歩の片恋の相手であった隣の縫箔屋の娘小鈴もまた、「新松葉」に身を売って去った。そして、ついに妹まき子も姉たちと同じ道をたどり「新松葉」の半玉(はんぎょく)となった。この年の秋は木歩にとって友は失せ、ひそか片恋の想いを寄せる小鈴も妹二人も家から去っていき、ただ寂寥の秋であった。さらに、利助が波王溺死の後、風邪をこじらせ寝付き、玩具店も馘首(くび)になった。実は風邪ではなく結核だった。喀血し熱に喘いだ。 9月、声風は個人誌「茜」を3号(9月号)から同人誌とし、木歩を同人に迎えた。この頃から俳号を吟波から木歩にしたという。同人には、声風、木歩の他に同年代の黒田呵雪らが名を連ねた。その後声風の慶應義塾大学の同級生の原田種茅も同人に加わり、後に木歩とも親しく付き合うことになった。利助の病状は悪化し、起き上がれることも出来なくなり、木歩は病人と起居を共にしながら必死に看病した。その年、木歩には姪の兄金太郎と梅代の長女ハツ(3歳)が逝った。声風は「茜」12月号を休刊し、新春1月号に、「木歩句鈔」の特集を出すことを企画した。年末に、近くの女工が俳句を学ぶため木歩に入門した。伽羅女と号を名付けた。石川伽羅女である。 1918年(大正7年)、声風は「茜」1月号を「木歩句鈔」の特集号として出した。これは、臼田亞浪、黒田忠次郎、浅井意外、それに歌人の西村陽吉らが「境涯の詩人」と賞賛した。声風は「茜」2月号を休刊とし、3月号を「木歩句鈔」に対する評論特集を出した。若手評論家4人に執筆を依頼し、四人とも好意的な評を書いてくれた。なかでも歌人西村陽吉は『木歩句鈔雑感』と題し「俳壇における石川啄木」であり「生活派」の俳人と評した。声風は高浜虚子などホトトギス系の俳人との付き合いが疎遠なため、「茜」の謹呈先にホトトギス系は少なく、これで木歩が全俳壇的に知られたというまでには至らなかった。 2月、利助逝く。18歳であった。3月、まき子も結核のため家に戻って来た。木歩がつきっきりで看病するも、まき子の病状は日を追うごとに悪化し7月末、まき子も逝った。浪王一周忌の7日前であった。木歩は駄菓子屋を閉じ、帽子の裏皮つなぎの内職をした。女弟子石川伽羅女へ好意から恋心を抱く。秋、木歩は「石楠」の同人に推薦された。 「石楠」は臼田亞浪が一応主宰であったが、内実は大須賀乙字、臼田亞浪、風見明成(かざみ あきなり)の三者の鼎立でなっていた。乙字派の名和三幹竹が編集を担当していた「懸葵(かけあおい)」という俳誌(主宰・大谷句仏が、その新春号で、公然と臼田亞浪批判を行ったことから、声風は亞浪の意を汲み、声風の同人誌「茜」を休刊した。また亞浪は「石楠」には「木歩の文章に声風の添削が入っているうちは掲載を許さない」としていたので、声風は木歩の文章を掲載してくれる俳誌を探した。幸い三河で俳誌「山鳩」を主宰する浅井意外が木歩に共感を寄せ、木歩の文章を掲載してくれた。 浅井意外は「ホトトギス」の村上鬼城の信奉者であり、耳疾の鬼城と似通った境遇の木歩に力添えしてくれた。「山鳩」の雑詠選句は鬼城が担当しており、その縁で木歩の名前はホトトギス系の俳人にも次第に知られるようになった。 7月、富山県の魚津で起こった米騒動は全国に拡がり、物価はさらに一段と高じた。まき子を芸者に売った貴重な金も、物価高の前にたちまち底をつき、木歩とみ禰は食うにも事欠く有様になった。結核に感染した木歩は、12月ついに喀血を繰り返し病臥した。俳友、亀井一仏が主治医となってくれた。 1919年(大正8年)1月、重症を脱する。1月早々、声風につれられ人力車に乗り写真館に行き、生まれて初めて写真を撮った。声風が俳句雑誌「山鳩」に連載していた、木歩の句風と人を紹介する文章「俳人木歩」の完結号に写真を載せるためだった。母み禰が脳卒中で倒れた。幸い軽度ですんだが再発が懸念された。3月のはじめに木歩は、長姉富子が囲われている、向島須崎町弘福寺境内にある家に移った。妾宅で母と居候同様の保護を受けた。7月、北海道の昆布商人で次姉久子の旦那の上野貢一郎が、眼病治療のため上京して淀橋柏木に仮寓しているのを、母み禰と共に訪ね一週間滞在した。その時、母と並んで写真を撮った。これが二度目の写真撮影だった。後年、声風編「定本富田木歩全集」の扉に紹介されているこの写真は、震災後、障害者で俳人である川戸飛鴻より貸与されたのを複写したものであり、木歩の写真として世に流布されておるのは、これがその原版である。 12月末、長姉の家が向島寺島町玉の井に転居。木歩と母も同行する。木歩は喀血後の予後がまだ充分には癒えていない体だったが、毛布にくるまれ馴染みの良さん(田中良助)の俥にのせられ引っ越した。末妹静子は「新松葉」に住み込みとなり、玉の井には来なかった。当時、玉の井は田畑や牧場のある農村で、水道も電気もなく夜はランプを灯した。やがて、建築ブームが起こり私娼街が造成されていった。 畑と牧場しかない玉の井が、私娼街の姿に整うのは1921年(大正10年)以降であり、1920年(大正9年)はじめはまだ、無秩序に家普請が続いている僻地だった。あちこちに蓮田や沼があり、牧場では牛が飼われていた。玉の井の新居にも二階があり、木歩は一人の殆どの時間を二階で過ごした。須崎の華やかさに浮つきかけた木歩が、また元の俳句三昧の生活に戻れた。木歩の生涯の中でこの玉の井の頃が最も多作の時代で、連日句作に励んだ。 声風は「木歩句鈔」を編んで、「石楠」に掲載するよう亞浪に懇請した。しかし、亞浪は何故かこれを渋った。そこで声風は渡辺水巴に頼んだ。水巴は快諾して「曲水」に1920年(大正9年)7月から4回に亘って連載した。そこで声風は木歩のために、水巴の厚意を謝した。しかし声風のこうした行動は、計らずも亞浪の逆鱗に触れた。ある日、木歩を訪れた声風は、「石楠」を脱退すると告げた。「木歩句集」が「曲水」に掲載されて以来、水巴に対する声風の傾倒親密さが、亞浪の疑念を深める結果になった。 水巴主宰の「曲水」に「木歩句集」が連載されたことにより、木歩の身辺は一気に慌ただしくなった。かつての「茜」の比ではなかった。木歩の元には各地の俳誌から次々と句や文章の依頼がきた。木歩はすべて快く引きうけ、木歩の名前、人となりと作品は一気に俳壇に知られることとなった。水巴は声風を「曲水」に同人として迎えようとしたが、声風は断った。代わりに、水巴や慶應義塾大学仲間の大場白水郎らとの句会に出席させてもらうことにし、「曲水」へは句は出さずに、随筆、評論のみを投稿した。水巴は木歩にも同人の声を掛けたが、木歩も断った。 1921年(大正10年)春頃には玉の井は沼地の殆どが埋め立てられ、娼家が立ち並ぶ歓楽街となった。人形屑削りの内職をやり、夏に木歩は貸本屋「平和堂」を開業した。一部家を改造した費用や当座の仕入れ金は、姉の旦那白井が出してくれたと言われている。声風は総額40円にもなる講談本全集を書店より購入し、また自宅にあった小説や俳句関係の本を持ち込んだ。だが客の殆どは娼婦で、借りていく本も軽い黄表紙ものばかりであった。 木歩は客の来ない時には、本を読み俳句を作った。評論や手紙などは店を閉めてから夜に集中して書いた。木歩は、玉の井と聞けば誰でも真っ先に思い浮かべる「娼婦」という言葉を使って句を詠むことを殆どしなかった。この年の秋、「平和堂」の店を覗いていた一人の少年が店に入って来て、一心に書いていた木歩に、何をしているのかを問いかけてきた。俳句というものを初めて知る少年は、俳句を学ぶこととなった。少年の名は、猪場毅(いば たけし)と言ったが、間もなく宇田川芥子(うたがわ けし)の俳号をもらい弟子となった。 1922年(大正11年)の春、声風は「石楠」主宰・亞浪との確執から、「石楠」同人を脱退した。声風の「石楠」離脱半年後、木歩も「石楠」退会届を亞浪宛てに提出した。「石楠」を退会しても木歩の発表先に不自由しなかった。三河の浅井意外の「山鳩」に木歩の頁を常に用意してくれていた。長谷川春草の「俳諧雑誌」、楠部南崖(くすべ なんがい)の「初蝉」などもこぞって木歩の句や文章を掲載してくれた。随筆・研究・論文を「曲水」「初蝉」「山鳩」「俳諧雑誌」などに『新年雑筆』『名猫』『近代名句評釈』『俳壇事始』『水巴句帖について』などの題で書いた。手記『私の歴史』草稿など書き、将来を嘱望された。この年、水巴は3月から「曲水」に「一人三昧」と題する新作の発表欄を設け、木歩を客分として連載を依頼した。句は声風が選をする形をとった。俳句雑誌「初蝉」の編集長の楠部南崖が訪ねてきた。二度目だった。出版されたばかりの「水巴句帖」について熱心に話し合ったという。11月には芥子よりも2歳ぐらい年長の、和田不一(わだ ふいち)という少年が俳句を習いに通って来た。平和堂主人・富田木歩は俳句は勿論のこと俳論も随筆も書ける新進の俳人として、その特異な境涯と共に、全国的に知られる俳人となっていたのである。 その年の正月に長兄金太郎と梅代の次女、1歳のリクが逝った。そして、夏には木歩がとても可愛がっていた身寄りの無い女工の伽羅女が、結核で亡くなった。木歩は伽羅女に片想いであった。若き師の思いもつゆ知らず伽羅女は夭死した。9月半ば、再発を懸念されていた、母み禰が脳溢血で倒れ逝った。小松川景勝寺へ納骨した。木歩が大量の喀血をした。喀血した木歩のもとに俳友で医師の一仏が来てくれたが、木歩の体調なかなか回復しなかった。 声風は「木歩短冊慰安会」と銘打って短冊頒布会を行い、木歩の療養資金を集めるための計画を思いつき、賛同者を募った。「石楠」と「曲水」にその広告が掲載された。揮毫者として、渡辺水巴、臼田亞浪、岡本癖三酔、大場白水郎、井上日石(いのうえ につせき)、など錚々たる名が並んだ。黒田呵雪らに声風と木歩を加え、十人の短冊十枚一組を十円で頒布した。収益金は二百五十円にもなり全額が木歩に渡された。木歩は涙ぐみ、声を詰まらせ謝した。木歩は声風とも相談して受け取った金額全部を、主治医である亀井一仏に預けた。木歩の死の日までの療養・注射代になった。年の暮近く、木歩の体力はかなり回復し、平和堂の店番を一日坐っていられる程になった。 明けて1923年(大正12年)、長姉富子の旦那白井が浅草公園脇の一等地の料亭を買い取り、富子に天麩羅屋を開かせることになり、玉の井の家は元の娼家仕様に戻し、売りに出し、買い手もついたので、慌しく引っ越すことになった。一方で白井は木歩のために、須崎に一軒屋を借り、平和堂を続けられるように改築してくれた。その上、木歩の面倒を見るための小おんなまで雇ってくれた。須崎を選んだのは、末妹静子がそこの「新松葉」で半玉になっており、様子を見に顔を出せるからであった。 行き届いた配慮に木歩は感激した。だが白井は礼を言いたいという木歩に会おうとはしなかった。代わりに声風が木歩に頼まれて、白井に礼を述べるために会った。白井は気風のよい江戸っ子だった。声風はこの年、8年在籍した大学を卒業し、父の意向で下谷の凸版印刷に勤めた。これまでの様に、足繁く木歩のもとには行けなくなった。 富子は浅草へ移り、天麩羅屋には「花勝」という看板を掲げた。木歩の「平和堂」の引越しは声風、一仏、種茅、芥子などが集まり賑やかにそして、一気に片付いた。初めての一人暮らしであり、一人の生活を案じて、また声風や種茅が足繁く通ってきた。妹の静子やその朋輩たちも顔をみせ、かつての「小梅吟社」のように若い仲間の集まる賑やかな場ともなった。 木歩は療養に専念するため、執筆を見合わせる旨の手紙を出したりしているが、結社の枠を超越して、広く自由な研究機関を思いたち、すぐ実行に移した。「草味吟社」のグループ名で「草味十句集」を毎月編集した。印刷の雑誌ではなく半紙に清書して綴じたものを、回覧して選句したり、批評を書き加えたりする回覧雑誌だった。一人が雑詠五句・題詠五句合せて十句出す仕組であった。メンバーには、木歩、声風、種茅、呵雪、一仏、芥子、不一など顔馴染みの他に、白水郎、増田長雨(ますだ ちょうう)、福島小蕾などの錚々たる名が見られた。結社でみれば「曲水」「石楠」「俳諧雑誌」の他に「ホトトギス」系の作家もあり、場所で言えば、東京だけでなく愛知、金沢、島根から北海道に及んでいた。 「石楠」離脱後、「曲水」に特別席を与えられていたが、同人でもなく自由な無所属の立場で誰とでも交流し、公正な意見を書いていた木歩であればこそ、実現したのかもしれない。毎月送られて来る作品は、芥子と不一によって清書され、当時、画学校に通っていた芥子によって表紙絵が書かれた。人数が多くなったので、同じものを二冊作って、回覧を早くする方法をとった。印刷誌ではなかったが、メンバーといい内容といい、こうした十句集では類のない豪華なものとなっていた。そして選句の結果は毎回、南崖の好意で「初蝉」に掲載されていた。それは俳壇各派の作家が集っているという特色はもとより、充実した作品群もまた、印刷され市販されている他の俳句雑誌にも見劣りしない立派なものだった。声風の胸の中にも木歩の胸の中にも、今は中断している「茜」を俳壇の新しい運動の拠点として、華々しく再出発させる日への期待が生き生きと燃えてくるのだった。」 弟妹につづく母の死、自らの病苦、こういう中で、声風はじめ俳句の友人は木歩を慰めようと7月、一夜の舟遊びを仕立ててくれた。参加者は木歩、声風、種茅、一仏、不一、松雄、静子、小鈴とその朋輩だった。芸妓を乗せての賑やかな船遊び。太鼓や三味線の音や、さざめく声を響かせて暗い夜の川面を屋形船の灯が過ぎていった。小松島近くでは亡き波王を偲び、手を合わせ、悼句を詠んだ短冊を流し、波王の霊を慰めた。小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だった。しかし、遂に最も苛酷な運命の日が、木歩と声風の上に襲いかかった。
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