木歩と声風の出会いとは? わかりやすく解説

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木歩と声風の出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:10 UTC 版)

富田木歩」の記事における「木歩と声風の出会い」の解説

1917年大正6年当時20歳新井声風慶應義塾大学理財科(後の経済学部)の学生であり、父は浅草映画常設館を営む事業家市会議員でもあった。声風は、「やまと新聞」の俳句通じて知った石楠しゃくなげ)」の臼田亞浪を師としていた。さらに個人誌」を創刊したばかりであった声風は、悲惨な境遇ありながら清新な句を詠む同門の吟波に前々から興味抱いていた。 その年の初夏本所仲之郷に住む、「小梅吟社」の吟波を訪ねた。狭い棲居の机上には「正岡子規遺稿」「句集」「荷風傑作抄」「鈴木三重吉選集」が積み重ねてあった。ここで木歩は同じ年の新井声風知り二人生涯の友となる。何不自由な育った声風何もかも自由な木歩、この二人尊敬し合って俳句のよき仲間生涯親友となっていく。身体障害貧困のために、小学校にも通えなかった木歩が、ここに大学生友人得て新し芸術的感覚雰囲気触れることができた。 声風頻繁に吟波の長屋にやって来た。その度に「ホトトギス」「海紅かいこう)」などの新刊俳句雑誌や「中央公論」「新潮」「新小説」「改造」などの総合雑誌持って来て、吟波の読書用に呈した俳句だけでなくもっと広い知識も身につけさせようとの配慮だった。声風三男で兄二人はすでに独立し慶應義塾卒業後は父親経営する浅草電気館引き継ぐことに決まっていたが、父は健在ですぐにということでもなかった。そのため、学生生活のんびりしたもので、慌てて卒業するつもりはなく、必要最小限勉学の他は、好きな俳句と旅に殆どの時間費やしていた。 ある日、吟波は、声風に「俳号変えようかと思う」と相談持ちかけた。それは吟波と号する俳人もう一人いたのであった河東碧梧桐系の「射手」に属す荒川吟波という俳人で、かなり名前が売れていた人であった声風直ち賛成しなかったが、木歩の真意解し賛成した。 その年の真夏の昼、波王は木歩の弟、聾唖者の利助を誘って隅田川泳ぎにいった。そして、川の魔の淵といわれる小松島溺死した。利助は慌てふためき炎天下一里もある仲之郷の長屋まで走り続け、木歩や妹まき子にその悲報伝えた。波王の恋人であった妹まき子は、まさに半狂乱であった。波王の変り果て死体下流三日後に見つかった。波王は享年18であった乙字、亞浪、種声風等々俳句史に長くその名をとどめるような師や先輩からの追悼句が、まさに寒々として何もない仏前飾った。夏の末、末妹静子長姉久子養女として「新松葉」に行った。そして木歩の片恋相手であった隣の縫箔屋の娘小鈴また、「新松葉」に身を売って去った。そして、ついに妹まき子も姉たちと同じ道をたどり「新松葉」の半玉はんぎょくとなったこの年の秋は木歩にとって友は失せ、ひそか片恋想いを寄せる小鈴も妹二人も家から去っていき、ただ寂寥の秋であった。さらに、利助が波王溺死の後、風邪こじらせ寝付き玩具店馘首(くび)になった。実は風邪ではなく結核だった。喀血し熱に喘いだ9月声風個人誌」を3号9月号)から同人誌とし、木歩を同人迎えたこの頃から俳号を吟波から木歩にしたという。同人には、声風、木歩の他に同年代黒田らが名を連ねたその後声風慶應義塾大学同級生原田種茅同人加わり、後に木歩とも親しく付き合うことになった。利助の病状悪化し起き上がれることも出来なくなり、木歩は病人起居を共にしながら必死に看病した。その年、木歩には姪の兄金太郎代の長女ハツ3歳)が逝った。声風は「12月号を休刊し、新春1月号に、「木歩句鈔」の特集を出すことを企画した年末に、近く女工俳句を学ぶため木歩に入門した伽羅女と号を名付けた石川伽羅女である。 1918年大正7年)、声風は「1月号を「木歩句鈔」の特集号として出した。これは、臼田亞浪黒田忠次郎浅井意外、それに歌人西村陽吉らが「境涯詩人」と賞賛した。声風は「2月号を休刊とし、3月号を「木歩句鈔」に対す評論特集出した若手評論家4人に執筆依頼し四人とも好意的な評を書いてくれた。なかでも歌人西村陽吉は『木歩句鈔雑感』と題し俳壇における石川啄木」であり「生活派」の俳人評した声風高浜虚子などホトトギス系の俳人との付き合い疎遠なため、「」の謹呈先にホトトギス系は少なく、これで木歩が全俳壇的に知られたというまでには至らなかった。 2月、利助逝く18歳であった3月、まき子も結核のため家に戻って来た。木歩がつきっきり看病するも、まき子の病状日を追うごとに悪化し7月末、まき子も逝った。浪王一周忌7日であった。木歩は駄菓子屋閉じ帽子の裏皮つなぎの内職をした。女弟子石川伽羅女へ好意から恋心を抱く。秋、木歩は「石楠」の同人推薦された。 「石楠」は臼田亞浪が一応主宰であったが、内実大須賀乙字臼田亞浪風見明成(かざみ あきなり)の三者鼎立でなっていた。乙字派の名和三幹竹編集担当していた「懸葵かけあおい)」という俳誌主宰大谷句仏が、その新春号で、公然と臼田亞浪批判行ったことから、声風は亞浪の意を汲み声風同人誌」を休刊した。また亞浪は「石楠」には「木歩の文章声風添削入っているうちは掲載許さない」としていたので、声風は木歩の文章掲載してくれる俳誌探した。幸い三河俳誌山鳩」を主宰する浅井意外が木歩に共感寄せ、木歩の文章掲載してくれた。 浅井意外は「ホトトギス」の村上鬼城信奉者であり、耳疾鬼城似通った境遇の木歩に力添えしてくれた。「山鳩」の雑詠選句鬼城担当しており、その縁で木歩の名前はホトトギス系の俳人にも次第知られるようになった7月富山県魚津起こった米騒動全国拡がり物価はさらに一段と高じた。まき子を芸者売った貴重な金も、物価高前にたちまち底をつき、木歩とみ禰は食うにも事欠く有様になった結核感染した木歩は、12月ついに喀血繰り返し病臥した。俳友亀井一仏主治医となってくれた。 1919年大正8年1月重症脱する1月早々声風につれられ人力車乗り写真館行き生まれて初め写真撮った声風俳句雑誌山鳩」に連載していた、木歩の句風と人を紹介する文章俳人木歩」の完結号に写真載せるめだった。母み禰が脳卒中倒れた。幸い軽度ですんだが再発懸念された。3月はじめに木歩は、長姉富子が囲われている、向島須崎町弘福寺境内にある家に移った妾宅で母と居候同様の保護受けた7月北海道昆布商人次姉久子旦那の上野貢一郎が、眼病治療のため上京して淀橋柏木仮寓しているのを、母み禰と共に訪ね一週間滞在したその時、母と並んで写真撮った。これが二度目写真撮影だった。後年声風編「定本富田木歩全集」の扉に紹介されているこの写真は、震災後障害者俳人である川戸飛鴻より貸与されたのを複写したものであり、木歩の写真として世に流布されておるのは、これがその原版である。 12月末、長姉の家が向島寺島町玉の井転居。木歩と母も同行する。木歩は喀血後の予後がまだ充分に癒えていない体だったが、毛布くるまれ馴染み良さん(田中良助)の俥にのせられ引っ越した末妹静子は「新松葉」に住み込みとなり、玉の井には来なかった。当時玉の井田畑牧場のある農村で、水道電気もなく夜はランプを灯した。やがて、建築ブーム起こり私娼街が造成されていった。 畑と牧場しかない玉の井が、私娼街の姿に整うのは1921年大正10年以降であり、1920年大正9年)はじめはまだ、無秩序に家普請続いている僻地だった。あちこち蓮田や沼があり、牧場では牛が飼われていた。玉の井新居にも二階があり、木歩は一人の殆どの時間二階過ごした須崎華やかさに浮つきかけた木歩が、また元の俳句三昧の生活に戻れた。木歩の生涯の中でこの玉の井の頃が最も多作時代で、連日句作励んだ声風は「木歩句鈔」を編んで、「石楠」に掲載するよう亞浪に懇請した。しかし、亞浪は何故かこれを渋った。そこで声風渡辺水巴頼んだ巴は快諾して曲水」に1920年大正9年7月から4回に亘って連載した。そこで声風は木歩のために、巴の厚意謝した。しかし声風こうした行動は、計らずも亞浪の逆鱗触れたある日、木歩を訪れた声風は、「石楠」を脱退する告げた。「木歩句集」が「曲水」に掲載され以来巴に対す声風傾倒親密さが、亞浪の疑念深める結果になった主宰の「曲水」に「木歩句集」が連載されたことにより、木歩の身辺一気慌ただしくなった。かつての「」の比ではなかった。木歩の元に各地俳誌から次々と句や文章依頼がきた。木歩はすべて快く引きうけ、木歩の名前、人となり作品一気俳壇知られることとなった巴は声風を「曲水」に同人として迎えようとしたが、声風断った代わりに巴や慶應義塾大学仲間大場白水郎らとの句会出席させてもらうことにし、「曲水」へは句は出さずに、随筆評論のみを投稿した巴は木歩にも同人声を掛けたが、木歩も断った1921年大正10年)春頃には玉の井沼地の殆どが埋め立てられ娼家立ち並ぶ歓楽街となった人形削り内職をやり、夏に木歩は貸本屋平和堂」を開業した一部家を改造した費用当座仕入れ金は、姉の旦那白井出してくれたと言われている。声風総額40円にもなる講談本全集書店より購入し、また自宅にあった小説俳句関係の本を持ち込んだ。だが客の殆どは娼婦で、借りていく本も軽い黄表紙ものばかりであった。 木歩は客の来ない時には、本を読み俳句作った評論手紙などは店を閉めてから夜に集中して書いた。木歩は、玉の井聞けば誰でも真っ先思い浮かべる娼婦」という言葉使って句を詠むことを殆どしなかった。この年の秋、「平和堂」の店を覗いていた一人少年が店に入って来て一心に書いていた木歩に、何をしているのかを問いかけてきた。俳句というものを初めて知る少年は、俳句を学ぶこととなった少年の名は、場毅(いば たけしと言ったが、間もなく宇田川芥子うたがわ けし)の俳号をもらい弟子となった1922年大正11年)の春、声風は「石楠主宰・亞浪との確執から、「石楠同人脱退した声風の「石楠離脱半年後、木歩も「石楠退会届を亞浪宛て提出した。「石楠」を退会しても木歩の発表先に不自由しなかった。三河浅井意外の「山鳩」に木歩の頁を常に用意してくれていた。長谷川春の「俳諧雑誌」、部南崖(くすべ なんがい)の「初蝉」などもこぞって木歩の句や文章掲載してくれた。随筆研究・論文を「曲水」「初蝉」「山鳩」「俳諧雑誌」などに『新年雑筆』『名』『近代名句評釈』『俳壇事始』『水巴句帖について』などの題で書いた手記『私の歴史草稿など書き将来嘱望された。この年巴は3月から「曲水」に「一人三昧」と題する新作発表設け、木歩を客分として連載依頼した。句は声風が選をする形をとった。俳句雑誌初蝉」の編集長部南崖が訪ねてきた。二度目だった。出版されたばかりの「水巴句帖」について熱心に話し合ったという。11月には芥子よりも2歳ぐらい年長の和田不一(わだ ふいち)という少年俳句習い通って来た。平和堂主人富田木歩俳句勿論のこと俳論随筆書け新進俳人として、その特異な境涯と共に全国的に知られる俳人となっていたのである。 その年の正月長兄金太郎代の次女1歳リクが逝った。そして、夏には木歩がとても可愛がっていた身寄りの無い女工伽羅女が、結核亡くなった。木歩は伽羅女に片想いであった若き師の思いつゆ知らず伽羅女は夭死した。9月半ば再発懸念されていた、母み禰が脳溢血倒れ逝った。小松川景勝寺へ納骨した。木歩が大量喀血をした。喀血した木歩のもとに俳友医師一仏来てくれたが、木歩の体調なかなか回復しなかった。 声風は「木歩短冊慰安会」と銘打って短冊頒布会行い、木歩の療養資金集めるための計画思いつき賛同者募った。「石楠」と「曲水」にその広告掲載された。揮毫者として、渡辺水巴臼田亞浪岡本癖三酔大場白水郎井上日石いのうえ につせき)、など錚々たる名が並んだ黒田らに声風と木歩を加え十人短冊一組十円頒布した収益金二百五十円にもなり全額が木歩に渡された。木歩は涙ぐみ、声を詰まらせ謝した。木歩は声風とも相談して受け取った金額全部を、主治医である亀井一仏預けた。木歩の死の日までの療養注射になった年の暮近く、木歩の体力はかなり回復し平和堂店番一日坐っていられる程になった。 明けて1923年大正12年)、長姉富子の旦那白井浅草公園脇の一等地料亭買い取り、富子に天麩羅屋を開かせることになり、玉の井の家は元の娼家仕様戻し売り出し買い手もついたので、慌しく引っ越すことになった一方で白井は木歩のために、須崎一軒屋借り平和堂続けられるように改築してくれた。その上、木歩の面倒を見るための小おんなまで雇ってくれた。須崎選んだのは、末妹静子がそこの「新松葉」で半玉になっており、様子を見に顔を出せるからであった行き届いた配慮に木歩は感激した。だが白井は礼を言いたいという木歩に会おうとはしなかった。代わりに声風が木歩に頼まれて、白井に礼を述べるために会った白井気風のよい江戸っ子だった。声風この年8年在籍した大学卒業し、父の意向下谷凸版印刷勤めたこれまでの様に足繁く木歩のもとには行けなくなった。 富子は浅草移り天麩羅屋には「花勝」という看板掲げた。木歩の「平和堂」の引越し声風一仏、種芥子などが集まり賑やかにそして、一気片付いた初めての一人暮らしであり、一人の生活を案じて、また声風や種足繁く通ってきた。妹の静子やその朋輩たちも顔をみせ、かつての「小梅吟社」のように若い仲間の集まる賑やかなともなった。 木歩は療養専念するため、執筆見合わせるの手紙を出したりしているが、結社超越して広く自由な研究機関思いたち、すぐ実行移した。「吟社」のグループ名で「味十句集」を毎月編集した印刷雑誌ではなく半紙清書して綴じたものを、回覧して選句したり、批評書き加えたりする回覧雑誌だった。一人雑詠句・題詠五句合せて十句出す仕組であったメンバーには、木歩、声風、種、呵一仏芥子不一など顔馴染みの他に、白水郎増田長雨(ますだ ちょうう)、福島小蕾などの錚々たる名が見られた。結社でみれば「曲水」「石楠」「俳諧雑誌」の他に「ホトトギス」系の作家もあり、場所で言えば東京だけでなく愛知金沢島根から北海道及んでいた。 「石楠離脱後、「曲水」に特別席与えられていたが、同人でもなく自由な無所属立場誰とでも交流し公正な意見書いていた木歩であればこそ、実現したのかもしれない毎月送られて来る作品は、芥子不一によって清書され当時画学校に通っていた芥子によって表紙絵書かれた。人数多くなったので、同じものを二冊作って回覧早くする方法をとった。印刷誌ではなかったが、メンバーといい内容といい、こうした句集では類のない豪華なものとなっていた。そして選句結果毎回、南崖の好意で「初蝉」に掲載されていた。それは俳壇各派作家集っているという特色もとより充実した作品群また、印刷され市販されている他の俳句雑誌にも見劣りしない立派なのだった声風胸の中にも木歩の胸の中にも、今は中断している「」を俳壇新し運動の拠点として、華々しく再出発させる日への期待生き生き燃えてくるのだった。」 弟妹につづく母の死、自らの病苦こういう中で、声風はじめ俳句友人は木歩を慰めよう7月一夜舟遊び仕立ててくれた。参加者は木歩、声風、種一仏不一雄、静子小鈴とその朋輩だった。芸妓乗せて賑やかな船遊び太鼓三味線の音や、さざめく声を響かせて暗い夜の川面屋形船の灯が過ぎていった。小松島近くでは亡き波王を偲び、手を合わせ、悼句を詠んだ短冊流し、波王の霊を慰めた小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だった。しかし、遂に最も苛酷な運命の日が、木歩と声風の上襲いかかった

※この「木歩と声風の出会い」の解説は、「富田木歩」の解説の一部です。
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