木橋時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 22:36 UTC 版)
毛利氏時代の広島城絵図とされる『芸州広嶋城町割之図』で(西国街道筋となる)京橋・元安橋と共に描かれている。慶長元年(1596年)『毛利氏奉行人連署書状』に文禄の役のため名護屋城に向かう豊臣秀吉が通るため、(西国街道筋)己斐橋と「広島中の小橋」の修繕を命じられた事が書かれている。このことから山陽道(西国街道)は毛利氏時代、安土桃山時代に形成されていたとする説がある。 関ヶ原の戦いののち毛利氏の後に福島正則が広島城主となった。江戸時代初期の正則時代、猿猴の古語である「ゑんかう」「ヱンカウ」に名を改めている。また一般的には、正則が城下に西国街道を引き込んだとされている。さらに正則時代に猿猴橋町が整備されていった。 『寛永年間広島城下絵図』。右側に「えんかうはし町」が確認できる。 『正保城絵図安芸国広島城所絵図』。最も右側の川(猿猴川)唯一の橋が猿猴橋。 福島正則の改易によって浅野長晟が広島に入封すると、幕末まで浅野氏が広島藩を統治した。広島藩は防犯上の理由により城下で架橋制限していたため、この橋は猿猴川唯一の橋梁であった。寛永12年(1635年)武家諸法度によって参勤交代が義務化されると、当初広島藩は海路を採用していた。宝暦4年(1754年)頃から西国街道による陸路に切り替え、この橋は浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなった。猿猴橋町は東側から広島城下に入る玄関口として宿場町に発展、京橋町付近は魚屋や市場が並んだ。 Clip 1930年頃。他の路より太く描かれており主要道であったことがわかる。 明治時代に入って、國道四號(現在の国道2号)筋の橋となる。木橋として最後の再架橋は明治19年(1886年)架橋。地元住民の手によるもので、橋長35間(34間6分とも)、幅員4間。欄干にはX型の角柱がはめられていた。 明治27年(1894年)広島駅が開業すると東の玄関口として交通量は増えていった。そのため木橋から頑丈な橋への永久橋化が望まれるようになった。明治27年日清戦争勃発、広島城内に広島大本営が設置される。同年9月15日東京から行幸した明治天皇は広島駅からこの橋を通り大本営へ入っている。
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