光秀単独犯説とは? わかりやすく解説

光秀単独犯説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)

本能寺の変」の記事における「光秀単独犯説」の解説

明智光秀が自らの意思決起して本能寺の変起したという説の総称単独犯行説光秀主犯説、光秀単独謀反説など幾つか同義言い方がある。 I. 積極謀反光秀が自らの意思能動的に決起したという説の総称野望説天下欲しかった光秀単独犯行」とするこの説は、変直後から語られ、最も古くからあるものの1つである。天正慶長年間書かれた『太田牛一雑記』において「明智日向守光秀小身たるを、信長公一の人持にさられ候處。幾程無く厚恩忘れ、欲に耽り天下之望を成し信長御父子、御一族歴々甍を並べ下京本能寺に於て六月二日無く討ち奉り訖(お)わんぬ」とあり、光秀天下望んで忘恩にも主君討ったという太田牛一の説がすでに述べられていて、彼は最初野望説論者と言える同じく同時期にルイス・フロイス書簡光秀忍耐野心裏付けされたものであったではないか述べていて、後に下記のように『フロイス日本史』に纏めているが、野望説怨恨説両方利用された。 …人々が語るところによれば、彼の好み合わぬ要件で、明智言葉を返すと、信長立ち上がり怒り込め一度二度明智足蹴にしたということである。だがそれは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事であったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智何らかの根拠作ろう欲したかもしれぬし、あるいは〔おそらくこの方がより確実だ思われるが〕、その過度利欲野心募り募りついにはそれが天下主になることを彼に望ませるまでになったかも知れない。… — 『完訳フロイス日本史』より一節 江戸前期から中期書物では、『明良洪範』に「明智日向守虐心は、数年心掛し事なりとぞ。逆心一年に、天下を取て後に、方々申付候事共を、筆記し朱印押した書物延宝四年に評定所出たる事ありしと」光秀事前計画あったような記述があり、『老人雑話』には「明智亀山の北、愛宕山続きたる山に城郭構ふ。此山を周山と號す。自らを周武王比し信長を殷紂に比す。是れ謀反宿志也」と野望逞しいさまの記述があった。この種の俗書幾つかあるが、これらは光秀謀反人という論調であって下克上野望肯定的に評価されていなかった。野望説根拠ともされる愛宕百韻連歌解釈異論唱えられているのも、先入観持った解釈だという批判あったからである。 儒教思想薄れた戦後戦国史研究権威であった高柳光壽改め野望説主張して怨恨説主張いずれも後年創作依拠したもので、史実とは認められない否定した高柳は「光秀信長争い得る兵力はない。けれども機会さえあれば信長倒し得ないことはない。今やその機会与えられのである」と、変直前信長油断した状況がこれを可能にしたと論じた。また(性格的不和原因とする説に反論して)『フロイス日本史』の記述などから武将として合理的な性格光秀信長との相性良かったはずだとも主張した野望説は現在も、前述した謀略説批判論者藤本正行鈴木眞哉などが(怨恨説一部含めて支持しているが、肝心動機に関して光秀の心に秘められた野望依存するだけなので、根拠とすべきものは存在しない突発説偶発説・油断説・機会説) 突発説、あるいは偶発説、または機会説は、野望説から派生したもので、光秀変後行動計画立ててたように見えないことから登場したのである計画性はなかったという主張以外では、野望説基本的に同じである。信長視点では油断説とも言う。 II. 消極謀反謀反光秀本意ではなく何らかの理由があって止むを得ず決起したという説の総称怨恨説 怨恨説は、私憤説とも言い信長横暴な振る舞い怒り個人的な恨みつらみ積み重ね原因として光秀謀反起したという説である。江戸から明治期における主流考えで、怨恨説が有力であると思われたのは、古典史料これこれ遺恨があったと多数逸話書いて説明していたからである。前節述べたように『川角太閤記』では光秀語らせるという形で明確に3つの遺恨理由として挙げた。『東照軍鑑』『明智軍記』『豊鑑』『常山紀談』『総見記』『柏崎物語』『祖父物語『義残後覚』『続武者物語などなど尽くこのような感じであり、著名な逸話載せたような話を書いて怨恨原因であるとしたのであるから、読者がそう思ったとしても無理からぬことだろう。しかしながら前節説明のように、これら古典二次三次史料であり、『絵本太閤記』などは読本と言え信憑性著し問題があって、高柳光壽大半が「俗書作り話」としたように史実とは認めがたいものばかりだった。 ただし史料拠る怨恨説がないわけではない有名なものは『別本川角太閤記』にある光秀が小早川隆景宛てた6月2日付の書状で、「光秀こと、近年信長対し憤り抱き遺恨もだしがたく候」として遺恨ために信長討って素懐達し候」という記述があることである。桑田忠親はこれを怨恨説根拠1つとするが、小和田哲男偽文書主張するなど異論もないわけではない怨恨説については俗書ばかりであるという主張は当然成り立つわけであるが、明らかに虚構という逸話がある反面信憑性ついてよ分からない逸話もあって、完全に否定肯定できないという面がある他方桑田は、フロイスの『日本史』にある「変の数ヶ月前に光秀が何か言うと信長大きな声を上げて光秀はすぐ部屋出て帰る、という諍いがあった」という記述根拠として、武士の面目立てるためであったとする新たな怨恨説唱えたが、この考え方義憤説に発展した。 不安説 光秀が自らの将来や一族の行く末に不安を覚え信長粛清されると考えてその先手を打ったという説。何らかの脅威受けたなど、受動的な動機主張する説の総称焦慮説、窮鼠説とも言う。 光秀織田氏譜代家臣ではなく信長仕えた期間も十数年と短期間であるにもかかわらず家臣団の中で有数出世頭となった。これは光秀能力評価され結果であるが、信長個人信任があってこそのことであった。その信長は、佐久間信盛林秀貞安藤守就丹羽氏勝といった重臣期待に沿う活躍出来なくなると、過去過失些細な科を理由に、容赦なく放逐している。光秀は手にした成功失いかねない不安を抱えていたのではないか考え保身のために謀反考えようになったというのである前述のようにこのような自衛のための謀反という主張は、古く頼山陽唱えている。 不安を抱いた原因として、林屋辰三郎は対四国政策の失敗や、足利義昭家臣であった光秀対す信長心証悪化挙げた谷口克広は、当代記ある光秀の年齢67歳きわめて高齢であったことを指摘し嫡子明智光慶10歳前半きわめて若年であったため、自らの死後光慶が登用されないことを憂い謀叛決意したとする。またその原因から派生して、不安が精神面及ぼした影響重視するノイローゼ説、武田氏内通していたことの暴露恐れたとする内通露顕説、秀吉とのライバル関係出世競争敗れたことを理由とする秀吉ライバル視説がある。変の背景としても用いられるため複合説での利用も多い。 ノイローゼストレスなどから発症する自律神経失調症などで精神的に追い詰められて、冷静な判断出来ず謀反起こしたとされる説。不安説から派生したもので、心理面特化されたもの。精神病理学心理学的な推測であり、特に根拠持たない光秀行動怨恨説等の論拠と同じもの)から心情推し量ったもので、精神科医司馬遼太郎のような作家提唱した。しかしこれらは作家想像上光秀人物像依存しており、事績からみれば根拠に欠く。小和田哲男は「従来説違って金ヶ崎退き口比叡山焼き討ちでも主導的な役割果たしていたことがわかっている光秀が、神経衰弱将来不安のノイローゼなどといった原因謀反起こすことは考えがたい」と否定的である。 内通露顕武田勝頼への内通策した光秀が、陰謀露顕しそうになって慌てて信長殺したという説。光秀内通は『甲陽軍鑑』の下記記述根拠とする。 勝頼公も明智十兵衛二月より逆心可レ仕と申越候處に、長坂長閑分別に謀を以て調儀にて申越すと云て、明智一つならざる故、武田勝頼公、御滅亡也。 — 『甲陽軍鑑山路愛山著書豊太閤』の中で、家康世子松平信康内通嫌疑受けたのであるから、光秀内通あり得ないことではないと主張した。また他の書では、家康伴われ安土入った穴山梅雪がこの光秀内通事実密告したがために、光秀信長襲撃決意したという説もある。ただし両説とも、すでに発覚した後であれば信長無防備な状態で本能寺宿泊するはずはなく、徳富蘇峰は「信ずべき根拠がない」と断じている。一方で内通しという事実が漏れることを心配したので光秀が変を起したという主張では、この話も前述の不安説の根拠一つとされる人間性不一致信長と光秀人間性性格)の不一致によって不仲であり、そのこと謀反の原因とする説。論拠とされる逸話怨恨説と同じ。 秀吉ライバル視説 不安説の亜種で、不安の原因秀吉とのライバル関係主眼において説明する説。不安説の中に含め場合もある。光秀秀吉ライバル意識示唆するような傍証はいくつかあるが、変を起す至った直接的な動機について特別な根拠持たず光秀心情分析したに過ぎないこのため複合説材料一つとされることが多い。 『明智軍記』に秀吉援軍命じられた際に「秀吉指図に任ス」とその配下に入るように命令され光秀家臣が「大キニ怒リテ」「無法ノ儀」だと不平述べ無念次第」だと嘆いたという記述があるが、小和田はこの記述信憑性不明しながらも、「『秀吉負けたということ強く意識することにはなったはずで、この光秀思いも本能寺の変を引きおこす副次的理由になった可能性はある」と述べている。 III. 名分存在説義憤説) 光秀謀反起こした理由を、野望怨恨恐怖といった感情面に求めるのではなく信長を討つにはそれだけ大義名分があったとする説の総称光秀が自ら決起したことを前提にして私的制裁狭義私憤説)を否定し時には個人的な野心すらも否定する大義名分が何であったか、大義もしくは正義)の内容によって諸説派生した史料論拠が不十分でも大義という論理基づいた行動説得力あるよう見えるので歴史学者好んで用いて近年多くの説が発表されている。義憤説、理想相違説など様々な呼び方がある。 神格化阻止信長神格化されることを嫌った光秀謀反起し阻止しようとしたという説。根拠とされるのは主にフロイスの『日本史』で、「信長安土城で自らを神とする祭典行い信長誕生日祝祭日定め参詣する者には現世利益がかなうとした」という記述フロイス1573年書簡でも「信長自身生きた神仏と言った」とある。そもそもこの記述信憑性疑問視する声もあるが、これに前後があって「だが、信長はこれをことごとく一生付し日本においては自身生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている」というのであり寧ろ無神論のような言説であった。また信長神格化されることを光秀嫌っていたとはフロイス誰も書いておらず、これを謀反結びつけるのは飛躍がある。 暴君討伐信長暴君であるとしてそれを討ったという説。比叡山焼討長島一向一揆での殺戮などが暴虐理由とされることが多いが、対象については多説多様。「六天魔王」と罵倒され宗教的理由挙げる場合もある。『武家事紀』に収録されている光秀勧降工作のために送った美濃野口城西尾光教宛て6月2日の手紙に「信長父子悪虐天下妨げ討ち果たし候」と書かれていたことなどを根拠とする。 朝廷守護信長天皇やそれを凌駕する権威目指していたとする仮説に基づき国体維持するために変を起したとする説。朝廷黒幕説に似ているが、朝廷関与はなく、光秀朝廷相談なく独断行動した想定するところが異なる。信長どのような体制目指していたのかが不明であり、まずその点が推測の域を出ない上に、光秀考えについても史料的な裏付けが不十分である。 源平交代説 平氏流れを汲む称する織田信長源氏室町将軍足利義昭廃して自ら征夷大将軍になろうとしていたという仮定に基づき源氏流れを汲む土岐氏出身光秀謀反起し阻止しようとしたという説。しかし、そもそも明智光秀出生について厳密に言えば不明な部分があり、確かな史料では『立入宗継記』に「美濃国住人とき(土岐)の随分衆なり」という記述があるだけで、あとは概ね明智軍記のような俗書拠り、確実とは言い難い上に複数異説がある。要するに、仮定にもとづく仮定であり、源平交代思想がどの程度重大性持ったかも論証されていない信長非道阻止小和田哲男著書明智光秀本能寺の変』で述べたもので、前記三つ暴君討伐説と源平交代説朝廷守護説を合成したようなもので複合説一種小和田は、信長非道として5点あげ、信長正親町天皇譲位させて皇位簒奪上皇地位を狙う)をしようとし、暦法改めようとし、平氏での将軍職就任狙い太政大臣近衛前久暴言朝廷軽視)を吐き国師快川紹喜焼き殺し極悪人であるから光秀信長誅殺しても朝廷庶民支持してくれるだろうと思っていたと主張する。これも仮定に基づく仮定であり、この著書まえがき小和田自ら指摘しているように、信長朝廷との緊張関係という前提覆すような研究がすでに発表されている。 四国征伐回避説(四国説信長四国征伐回避するために光秀謀反起こしたとする説の総称。単に四国説とも呼ばれる総称述べたのは、この説の扱いについては必ずしも定まっていないからである。当項では四国征伐回避を主要因であり大義名分であったとして分類したが、副次的な要因捉えることも可能で、四国政策において面目潰されたために謀反起したという怨恨説、あるいは四国政策の失敗ライバル秀吉負けたことに不安を募らせたという不安説と考えたり、または四国征伐挫折させるために長宗我部元親斎藤利三積極的に黒幕となって謀反を起させたとすれば黒幕説や共謀説と解することも可能なわけで、まだまだ様々な解釈存在するからである。 この説が俄かに注目集めたのは、平成26年2014年)、石谷家(いしがいけ)文書林原美術館)の中から元親から利三に宛てた書状発見されたからである。共同研究進めている同館学芸課長浅利尚民と岡山県立博物館学芸主幹内池は、この資料本能寺の変直前斎藤利三長宗我部元親考えや行動を明らかにするもので「本能寺の変きっかけとなった可能性のある書状」と評価している。 内容は、元親が土佐国阿波2郡のみの領有上洛応じる旨を記しており、ここから四国攻め実施される政治的に秀吉三好笑岩の完全勝利となり、光秀織田政権下はもちろん長宗我部氏に対して面目を失い、いずれ失脚することになると思った可能性があることから、それで本能寺の変起こしたとも読み取れる論評された。ただし、この文書四国説結びつけるためには、利三に届けられた元親の考え信長耳に入ったか、入ったとすれば信長はそれにどう反応したか、またこの知らせ光秀はどう受け止めたか、などの可能性慎重に検討する必要があり、魅力的な文書ではあるものの、四国説正しと言えるような直接的な証拠足り得ない、とする意見もある。 従来より四国政策変更問題については、高柳桑田いずれも指摘してきたが、藤田達生三好康長本能寺の変以前秀吉の甥の信吉(後の豊臣秀次)と養子縁組結んで秀吉三好水軍連携させたことによって秀吉光秀間に政治的対立生じたこと、光秀長宗我部氏からの軍事支援期待して本来であれば徳川家康が堺から帰洛後に行う筈であった襲撃繰り上げたとしている 。藤田は「長年長宗我部との取り次ぎにあたってきた光秀には、業績全面否定される屈辱だったでしょうライバル秀吉にも追い落とされるとの思いで、クーデター及んだのではないでしょうかと言った桐野作人は、以前からさらに踏み込んだ利三主導四国説唱えていたが、石谷家文書について「元親が譲歩したといっても、織田信長阿波取り上げ方針決めており、とても報告できない内容だった。こうなった四国攻め加担するか、あるいは思い切って謀反に立ち上がるか。決断迫られたと思う」と述べている。 「#四国・長宗我部問題」も参照 IV. 複合説 幾つかの説を組み合わせて内容取捨選択補完して説を形成しているものの総称。説として史料的に論証されたものは存在しないそもそも根拠示されていないものも多く論証することは余り考慮されていない幾つかの状況証拠点と線結び付けて説を構成するのに便利なために作家・歴愛好家良く用いる。

※この「光秀単独犯説」の解説は、「本能寺の変」の解説の一部です。
「光秀単独犯説」を含む「本能寺の変」の記事については、「本能寺の変」の概要を参照ください。

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