光竜鉱山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 14:59 UTC 版)
恵庭鉱山から北東に4km、えにわ湖で漁川と分かれるラルマナイ川の支流である金山沢にあった金鉱山。国道453号からも近い。 恵庭鉱山よりも30年ほど前の1899年に発見され、1935年に藤田組藤田鉱業所によって操業が開始された。品位(含有量)は金21g/t、銀280g/tと恵庭鉱山よりも多く、国の産金奨励策により従業員数も1939年41名、1940年83名、1941年102名と増え、1942年には小学校も開校された。しかし1943年に政策が一転し金鉱山整備令により閉山となり、鉱業権を戦時国策会社である帝国鉱業開発株式会社に移管した。戦後、1948年に東北産鉱が採掘を再開し、1949年には油谷鉱業に譲渡され従業員数24名で小規模に操業をおこなった。油谷鉱業は同時期に恵庭鉱山の鉱業権も取得しているが、探鉱成績の良かった光竜鉱山の操業を再開した。以後、合同資源産業を経て野田玉川鉱発株式会社が操業を続け、1998年には従業員数11名で年間3,000tの鉱石を採掘し苫小牧経由で大分県にある日鉱金属の佐賀関製錬所に送っていた。この間、恵庭・光竜の両鉱山で継続的に探査・探鉱がおこなわれたが操業されたのは光竜鉱山だけである。2006年に閉山し、これにより国内の金鉱山は菱刈鉱山のみとなった。 光竜鉱山小学校は1942年に恵庭鉱山小学校から分かれて1クラスで開校、翌1943年に閉山とともに閉校した。
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