石谷家とは? わかりやすく解説

石谷家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 06:15 UTC 版)

石谷伝四郎」の記事における「石谷家」の解説

鳥取県八頭郡智頭町) 石谷家は在方商人として宿場中心往来筋に店を構え問屋稼業金融業山林地主として成長したが、それら経営内容形成過程を知ることが可能な文書は、宝永年間1704年1710年)から大正末まで詳細に記されており、保存資料五千点を数える。 本家石谷家は屋号塩屋志保屋とも記す)といい、古く鳥取城下で塩の卸問屋家業とし、藩の御用商人として成長していったと伝えるが、過去帳からは、延宝年間1673年1680年)頃、智頭宿来住したと推測される大正時代当主石谷伝四郎記した文書(ふうけんぶんしょ)』には、宝暦年間火災にあい、一部事績失ったとある。 略系図から、俗名知れるのは八左衛門からで、次の吉兵衛の子息、初代三郎本家継ぎ、弟の彦太郎分家上塩屋おこした初代三郎の子息伝四郎本家継ぎ二男左衛門分家下塩屋を、三男次郎分家塩屋おこして名望家として独立していった。 初め大庄屋任じられたのは新塩屋の兵次郎で、天明2年1782年)の事、農村体制崩壊しはじめ、農民農業離れて余業に走るような時代跡役継いでいる。その後本家二代目三郎二度わたって大庄屋勤めたが、折しも天明の飢饉にあたり不作凶作によって深刻な事態見舞われ、その窮状訴え文書もんじょがたくさ残されている(石谷家文書初代九郎の代は、文化10年1813年)より8年間にわたって大庄屋勤めたが、新見谷・土師谷の困窮を救うことができず、藩からお咎めを受けながらも、在方役人として懸命に上構(かみがまえ)(下構は用瀬佐治)の財政立て直そう努力している。その跡は国米こくまい)家が大庄屋引き継ぎ江戸時代末期には新塩屋の直四郎大庄屋勤めた明治・大正時代新時代むかえた本家石谷家からは、貴族院議員第一高等学校教授輩出し政治・社会近代化多大な功績足跡残した。 父・伝九郎 継母・たか(鳥取大塚源造長女) 妻・イサミ新潟県 士族牧野正利妹) 養子・貞彦(岩手県 士族片倉守次三男) 弟・伝市郎学者学習院教授第一高等学校教授等を歴任

※この「石谷家」の解説は、「石谷伝四郎」の解説の一部です。
「石谷家」を含む「石谷伝四郎」の記事については、「石谷伝四郎」の概要を参照ください。

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