江戸から明治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 00:31 UTC 版)
江戸初期には近郊農村であった西成郡難波村と西高津村の一部であった。大坂の陣後の1615年、市内の墓地の整理により「千日墓地」と呼ばれる大規模な墓地がつくられ、刑場・焼き場も併設された。これが後にさまざまな噂話や因縁話の原因にされることとなる。なお、大坂西町奉行所近辺にあった牢獄から本町橋を渡り西へ向かい、西横堀川で南下、道頓堀川を東へ向かい千日寺(刑場)に向かうのが市中引き回しルート。 1702年、玉造の伏見坂町の東半(北組伏見坂町)が大坂代官の玉造口組屋敷地(西成郡古屋敷地)として接収されることになり、代替地として道頓堀南東の西高津村領内に移転し、元伏見坂町(もとふしみさかまち)が形成された。坂町(さかまち)と通称された元伏見坂町には茶屋や見世物小屋が集まり始め、南地五花街の一つに数えられるほどの賑わいを見せるようになった。坂町および南隣の難波新地1丁目は、天保の改革の際に歌舞伎と浄瑠璃に携わる者の居住区に指定された経緯を持っており、この2町が現在の千日前1丁目に概ね該当する。 現在の千日前2丁目は、難波新地2丁目(のちに再編されて難波新地4番町)のごく一部(現:エスカールなんばの一画のみ)・難波村字北河原(旧町名:河原町1丁目)の北部・西高津村字髭剃(のちに難波村に編入されて難波村大字西高津。旧町名:南阪町)に概ね該当し、上記の千日墓地などが設置されていた所である。 明治以降、刑場は廃止され墓地が阿倍野に移転して繁華街が広がって行くことになるが、当初は墓地跡・刑場跡(晒し台・磔台・獄門台)ということでなかなか買い手がなかった。そこで大阪市は、10坪入手した者には5円を「灰処理代」として援助した。 1885年の阪堺鉄道(南海電気鉄道の前身)難波駅開業などで一気に人通りが多くなる。
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