江戸から越後在住時代とは? わかりやすく解説

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江戸から越後在住時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:08 UTC 版)

釧雲泉」の記事における「江戸から越後在住時代」の解説

寛政12年1800年)、41歳のとき備州去り大坂移り住んだ享和元年1801年)、蒹葭堂訪ねるその後京都に赴き、享和2年1802年)には江戸下向湯島天神の裏門付近に居住儒学者亀田鵬斎海保青陵篆刻家稲毛屋山漢詩人菊池五山書家巻菱湖など多く文人墨客と交わる。この頃結婚した推測される文化3年4月1806年46歳の頃、大窪詩仏とともに信越赴く高崎から安中抜け碓氷峠越えて信濃入りし、信濃川下って越後柏崎に至る。その途次各地で画の依頼受けて制作をしている。詩仏は引き返したが、泉は旅を続け三条で秋を過ごしたその後一旦、江戸帰り妻子連れて越後三条移住し南画普及尽くす。この間越後各地遍歴石川侃斎上田旭山倉石米山倉石乾山行田八海などの門弟育てている。文化5年(1808年)には燕の素封家神保家滞在し画作している。 文化8年(1811年)5月には、亀田鵬斎とともに中条岡田家吉田酒井家逗留し画を描いている。同年越後出雲崎遊び中江杜徴邂逅杜徴から「画は敬服するが、もう少し書を研究するように」と諭された。浄邦寺住職泰峨は泉を大い歓迎して画の弟子となるが、同年11月蕎麦屋けんどん屋」にて酒を飲むうち急死する享年53。泰峨により浄邦寺に埋葬される海野蠖斎の依頼受けて亀田鵬斎碑銘し「泉山墓銘」として刻されている。

※この「江戸から越後在住時代」の解説は、「釧雲泉」の解説の一部です。
「江戸から越後在住時代」を含む「釧雲泉」の記事については、「釧雲泉」の概要を参照ください。

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