『フロイス日本史』の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)
「稲葉山城の戦い」の記事における「『フロイス日本史』の記述」の解説
『フロイス日本史』では以下のように記述される。 信長と龍興がお互いに布陣した後、信長は計略を用いた。信長は夜間、家臣の半分ほどをいったん後退させ、密かに敵の背後へ配置した。龍興は信長の陣を偵察させ、自分の側がはるかに有利であることを知ると、進撃を開始した。龍興が進撃を始めると、信長隊はあらかじめ作っておいた斎藤方の家臣の旗印を立て、龍興隊の背後にまわった。龍興はこの動きを見ていたが、味方の旗印をみとめると喜んだ。両軍が戦端を開くと、信長隊は龍興隊を挟撃して打撃を与え、次に美濃の主城(=稲葉山城)へ突進し、陥落させた。こうして信長は美濃国を獲得した。龍興は非常に苦労して数人の家臣と供に騎馬で脱出。まず京へ逃れたが、安全ではないと判断し、堺へ移った。
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