光秀の老母が磔に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)
『総見記』『絵本太閤記』『常山紀談』などに在る話。天正7年(1569年)6月、光秀は自身の母親を人質として出し、丹波八上城主波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を、本目の城(神尾山城か)での酒宴に誘って、彼らを伏兵で生け捕りにして安土に移送したが、秀治はこの時の戦傷がもとで死に、秀尚以下全員は信長の命令で磔にされた。激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害したと云うもの。 光秀天正七年六月、修験者を遣して、丹波の波多野右衛門大夫秀治が許に、光秀が母を質に出し謀りければ、秀治其弟遠江守秀尚、共に本目の城に来りけるを、酒宴して饗し、兵を伏せ置きて、兄弟を始め従者十一人を生捕り、安土に遣しけり。秀治は伏兵と散々に戦ひし時、 傷を蒙り途中にて死す。信長秀尚以下を安土にて磔にされたり。丹波に残り居たる者ども、明智が母を磔にしたり。… — 『常山紀談』 信憑性 この話は怨恨説のうちでも、とりわけ有名であるが、『総見記』や『柏崎物語』は、光秀の「調略」による波多野兄弟の誘降に関する記録を恣意的に解釈したもので、事実とはほど遠く、創作であり、信じるに足りない。 『信長公記』によると、長期の包囲により八上城内は飢餓状態に追い込まれ、草や木をも食用とし、最後には牛や馬を食べたが、ついに口にするものがなくなり、城外に出たところを包囲軍に切り捨てられたとされ、頃合を見計らって光秀は、調略をもって秀治を捕らえたとされる。この場合の調略は、秀治の家臣を誘降し、彼らの手で城主の波多野兄弟を捕らえさせ、降伏させたという説があるから、人質交換の余地など、全く見当たらない。戦況からして、八上城の落城は確実であったわけであるから、光秀としても、あえて母親を人質とする必要に迫られることはなかったのである。
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