光秀の躍進
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2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人蔵)に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見である。これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能(米田求政)の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で、光秀自身が「高嶋田中籠城之時(高嶋田中城に籠城)」に語った内容を含んでいる沼田勘解由左衛門尉の所持本を、永禄9年10月20日(1566年12月1日)に近江坂本において米田貞能が作成した写本である。定説の元となった『明智軍記』には、永禄9年10月9日に光秀は越前から美濃の岐阜に来たと書かれているが、光秀は『針薬方』が書かれた永禄9年10月20日以前に、幕府方として、高嶋田中城に籠城したことになる。 その後の調査の結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、出産や刀傷の対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書を一般公開した熊本県立美術館は、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている。 確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日)に室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された(永禄の政変)直後であると考えられるが、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある。田中城は現在の滋賀県高島市安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点に活動していたと見れば、後の元亀2年(1571年)に滋賀郡に領地を与えられるのも理解しやすくなる。 義昭は各地に檄文を発していたので、身を持て余していた人々が馳せ参じたかもしれず、光秀もその一人だったと考えられる。そして、琵琶湖の西部に位置する高嶋の地に軍事的緊張が高まった永禄9年8月から10月20日の間に、足利義昭方として、対三好軍戦の防御網の一角である高嶋田中城詰に参加し、その後家臣団の整備の際に足軽衆として正式に編入されたのだろう。 一方で、永禄9年に入り、江北の浅井長政は高島郡の山徒・土豪を引き入れるかたちで積極的に高島郡への進出を図った。長政は饗庭氏を中心とする山徒「三坊」(西林坊・定林坊・宝光坊)に、味方に付いたなら、保坂関所・万木の正覚寺跡・河上庄六代官のうち朽木殿分・善積庄八坂名を与えることを約束し、山徒千手坊には「河上六代官之内田中殿分」を与えると約束し、幕府御家人朽木・田中氏らの所領押領を図った。その後の在地の状況が具体的にどのようであったかは不明であるが、5月19日付けで義昭の申次を務めた奉公衆・曽我助乗宛ての光秀書状「高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火、敵城三ヶ所落去候て今日帰陣候、然処、従林方只今如此註進候、可然様御披露肝要候、………」があり、近江高嶋で饗庭三坊と呼ばれる西林坊・定林坊・宝光坊の城下に放火し、敵城三カ所を落としたこと、林方よりの注進を義昭に披露してほしいことが書かれている。この光秀書状は、元亀3年(1572年)に年次比定されているが、米田文書の再発見、「来迎寺文書」(4月18日付で長政が西林坊・定林坊・宝光坊の忠節を褒め、知行(朽木氏・田中氏の領地を含む)をあてがう旨の書状)などにより、文禄9年に年次比定されるべきであり、「高嶋田中籠城之時」の同年5月ごろまでに光秀は義昭に加勢していたと指摘されている。
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