光秀の躍進とは? わかりやすく解説

光秀の躍進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)

明智光秀」の記事における「光秀の躍進」の解説

2016年時点で判明している限りでは、「米田文書」(個人)に含まれる『針薬方』が光秀史料上の初見である。これは2014年熊本藩細川家家臣医者だった米田貞能(米田求政)の、熊本市にある子孫自宅発見され医学書で、光秀自身が「高嶋田中籠城之時(高嶋田中城籠城)」に語った内容含んでいる沼田勘解由左衛門尉所持本を、永禄9年10月20日1566年12月1日)に近江坂本において米田貞能が作成した写本である。定説の元となった明智軍記』には、永禄9年10月9日光秀越前から美濃岐阜に来たと書かれているが、光秀は『針薬方』が書かれ永禄9年10月20日以前に、幕府方として、高嶋田中城籠城したことになる。 その後の調査結果明智光秀若き日語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測されており、出産刀傷対処法など、当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られ、この古文書一般公開した熊本県立美術館は、光秀信長仕える前は医者として生計立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている。 確定できないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日1565年6月7日)に室町幕府第13代将軍足利義輝暗殺された(永禄の政変直後であると考えられるが、前述朝倉義景仕官時代重な恐れがある田中城現在の滋賀県高島市安曇川町にあった湖西から越前方面へ向かう交通の要衝で、かねてからここを拠点活動していたと見れば、後の元亀2年1571年)に滋賀郡領地与えられるのも理解しやすくなる義昭各地檄文発していたので、身を持て余していた人々馳せ参じたかもしれず、光秀もその一人だったと考えられる。そして、琵琶湖西部位置する高嶋の地に軍事的緊張高まった永禄9年8月から10月20日の間に、足利義昭方として、対三好軍戦の防御網の一角である高嶋田中城詰に参加しその後家臣団整備の際に足軽衆として正式に編入されたのだろう。 一方で永禄9年入り江北浅井長政高島郡山徒土豪引き入れるかたちで積極的に高島郡への進出図った長政饗庭氏中心とする山徒「三坊」(西林坊・定坊・宝光坊)に、味方付いたなら、保坂関所万木正覚寺跡・河上六代官のうち朽木殿分・善積庄八坂名を与えることを約束し山徒千手坊には「河上六代官之内田中殿分」を与えると約束し幕府御家人朽木田中氏らの所領押領図ったその後在地状況具体的にどのようであったかは不明であるが、5月19日付け義昭申次務めた奉公衆曽我助乗宛て光秀書状高嶋之儀、饗庭三坊之城下迄令放火敵城三ヶ所落去候て今日帰陣候、然処、従林方只今如此註進候、可然様御披露肝要候、………」があり、近江高嶋饗庭三坊と呼ばれる西林坊・定坊・宝光坊の城下放火し敵城三カ所を落としたこと、林方よりの注進義昭披露してほしいことが書かれている。この光秀書状は、元亀3年1572年)に年次比定されているが、米田文書再発見、「来迎寺文書」(4月18日付で長政西林坊・定坊・宝光坊の忠節褒め知行朽木氏田中氏領地を含む)をあてがう旨の書状)などにより、文禄9年年次比定されるべきであり、「高嶋田中籠城之時」の同年5月ごろまでに光秀義昭加勢していたと指摘されている。

※この「光秀の躍進」の解説は、「明智光秀」の解説の一部です。
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